普通 vs 理想

いろいろエッセイ
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 以前、このブログの記事でわたしと教会のお掃除を一緒にやってくださっていたSさんが大怪我をされた、という話をしたかと思う。そして、いつものように平凡な日々を送ることができることがどれだけありがたいことかということを書いた。
 それで、そのSさんと昨日また電話で話をさせていただいた。先週の金曜日が手術だということで、「手術が無事成功しますように」と祈っていたわたしである。だから、昨日は火曜日で手術から4日経っている。
 電話に出たSさんの声、しわがれている。かさかさしているといった感じだろうか。かすれていて、どうしたのだろうとわたしは思った。話を聞いていくと、手術で全身麻酔をしたらしく、その影響で声がかすれ気味だとのこと。わたしは電話で話をするのが大変ではないかと思い、「お話するのが大変ですか?」とSさんにたずねた。Sさんは「声を出さないと声は出なくなってしまいますから」と声が出にくいものの、わたしとの電話をそこで終わりにはしたくないという意思を示されたのだった。
 そして、わたしがこの電話で一番印象に残っているSさんの言葉。それは「普通に暮らせることが一番幸せです」というとてもシンプルな言葉だった。普通が一番幸せ。わたしに鮮やかな衝撃が走った。
 わたしはこのブログでも普通が一番とか言いながらも、その考えに完全に同意することができずにいた。どこかで、今の暮らしよりももっと素晴らしい生活や世界があって、わたしにはそんなバラ色の普通ではない何かがきっと待っている。そんな地に足のつかないことをわたしは考えていたのだった。だから、いつまで経ってもどこか彼方を夢見ていて、夢想すらしていて、今のこの普通の生活というものを直視できていなかった。さらには、この日々に感謝しているポーズを取りながらも、どこかそれが表面的なもので、本音としてはどこか彼方のことばかり考えていたのだ。もっと頭が良くなれたら。もっと知識が豊富になって学識が得られたら。もっと高学歴になれたら。もっと美しい肉体を手に入れることができたら。もっとお金持ちになれたら・・・etc。もっと、もっと、もっと!!
 そんな理想の自分、憧れの自分と比べたら、今の自分なんて、本当にしょぼくて冴えなくてパッとしない。今の自分自身の姿、そして暮らしぶりにあの輝かしい彼方から戻ってくると幻滅さえしてしまうのだ。
 でも、それは違った。間違っていた。たしかに今の自分は憧れの自分と比べたらしょぼいのかもしれない。ださくて、カッコ悪くて、情けないのかもしれない。けれど、今自分が手に入れていないものではなく、持っているものに目を向けてそれを見つめ直す時、それがどれだけ恵まれていて、素晴らしくて、光り輝いていて、尊いものかということにハッとさせられる。
 わたしは精神障害と言語障害の吃音こそあれど、歩けるし、ご飯も一人で食べられるし、トイレも一人でできるし、読書もできるし、目も見えるし、耳も聞こえるし、平凡な温かい家庭もあるし、経済的に何とかやれているし、日本は戦争をしていなくて平和だし、徴兵されていないし、教会の人々との温かい人間関係だってあるし、生き甲斐だってあるし、趣味だってあるし、拘束されていなくて自由だし、選挙権あるし、借金もないし、何よりも普通に暮らすことができている。
 これらがまばゆい宝石だったことにわたしは気付いたんだ。この当たり前のことに光が当たって照らし出されるとき、それはまばゆい光を放つんだ。
 わたしはこの当たり前のこと、普通に享受できているこれらのことのありがたさを特段感謝もありがたいと思うこともなく、平凡とか、しょぼいとか、つまらないとか、パッとしないなどと不当な評価をくだして蔑んできてしまっていたんだ。でも、本当はこの当たり前のことが一番尊くて一番素晴らしいことだったんだ。
 もちろん、高い目標や志を立てて、それに向かって努力することも尊く意義がある。しかし、その前に、今自分が持っているものに注目してそのことを正しく評価することが必要だと思うのだ。高い目標や志というのはいわばオプションだ。より自分自身を高めていくことだ。だから、その前に、その前提として自分が本当にあふれんばかりの恵みを受けている。つまりは、もうそれだけで万々歳なくらいのものを持っているのだということに開眼して気付く必要があるのだ。そうしないと、最終的にはどこまでも目標を立て続けて、追い続けるだけで人生は終わってしまう。どこまで行っても満たされないハングリー精神はそれはそれでまた問題なのだ。
 高い目標や志を持ちながらも、今自分がここまで到達できていることに喜びと満足感を感じる。これが大切なように思うのだ。山登りにたとえるなら、山の頂上にまで登りたいという目標はありつつも、今自分がここまで来ていることを喜ぶのである。そして、自分が山登りをできることに感謝する。
 しかし、まぁ高い目標とかは持ちたい人が持って、やりたい人がやればいいんじゃないかって気もする。人によってどこで満足するかみんな違うと思うし、それにどこまで到達しなかったらダメということもないしね。
 ここまでこの記事を読んでいただいて、鋭い方はわたしがブレていることに気付かれたことだろう。星は普通と理想、どっちがいいって言いたいわけってね。それはもっともな指摘ではある。実はわたしの中でもそのことに決着がズバっと付いているわけではないのだ。普通の尊さと素晴らしさに目を見開かされつつも、理想の高みにも一方で憧れてしまう。だから、普通に完全に安住することができない。どうしても進歩向上を捨て切ることができない。そのはっきりしない板挟みの状態にありつつ、わたしは生きているのだというのが正直なところかもしれない。
 うーん。つまり、どこで満足するかっていう話じゃないかな。普通に最上の価値を見出して進歩向上の必要を感じないのも一つの生き方だし、普通では満足できないとどこまでも進歩向上を目指していく生き方もある。で、わたしはその二つの考え方のどこあたりにいるかと言えば、真ん中あたりといったところだろうか。いいとこどりかもしれないけれど、持っているものに感謝しつつ(普通をや平凡の価値を否定せずに)、歩みの過程を大事にしながら自分の目指すべき目標にもぼちぼち取り組んでいく、みたいな。まぁ、どっちなのと言われれば、進歩向上していきたいってことになるのかな。でも、今の自分を否定することだけはしたくないと思っている。
 「良くなりたい」「向上したい」といういわば人間の本能を完全になくすのは難しい。この思いというか、衝動は人間に備わっているものじゃないかとも思うんだ。だから、これを完全否定することは不自然であって、自分自身の心の声にも反することじゃないかな。
 普通を最上のものとする人であっても、向上心はある。料理がもっとうまく作れるようになりたいとか、そういった生活に関わる欲求はあるだろうと思う。もしかしたら、向上心を完全になくしたり、捨てることは人間にはできないのかもしれない。
 しかし、普通が満更悪くないどころか、本当に素晴らしいものだとSさんを通して気付かされたことが今回得た気付きであり、大きな収穫だったように思う。普通、平凡がまばゆいばかりの輝きを放っているというこの真実は何事もなく生活しているとどんどん見えなくなっていってしまう。
 そういうわけで進歩向上を目指す道を歩きながらも、自分が持っているもの、つまりは神様から人生を送るために与えられている一式に感謝できたらと思う。理想の彼方もキラキラ光っているけれど、それ以前に自分自身が、自分が持っているものがすでにキラキラしていた。この当たり前のことを教えてくれたSさんに感謝したい。そして、Sさんの今後のリハビリがうまくいき、また再び歩けるようになりますように、と祈るわたしなのであった。

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