なぜわたしのブログはアクセス数が伸びないのか

いろいろエッセイ
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 ここ数日、ブログの記事を書かない日が目立つようになりつつある。何ていうか、ブログのアクセス数を見るとやる気がなくなるのだ。こんなに頑張って心血注いで(血は流していないけれど頑張ってはいる)いるのに一向にアクセス数は伸びず、ほとんど書いた過去の記事は死んでいるようなもので、ほぼ誰からも顧みられることはなく電脳空間でただただ漂っている。
 わたしの記事は価値がないのだろうか。誰もわたしの文章なんて読みたくなくて、わたしに興味なんてそもそもなくて、無駄に頑張ってるな、程度にしか思われていないのだろうか。必要とされていない。わたしは必要とされていないんだ、という思いが日に日に強くなってくる。もっと必要とされたい。必要とされて、星さんいつも楽しみに読んでいます、とか今度はこんな記事が読みたいです、とか言われてみたい。しかし、そんな励まされるコメントがブログに寄せられることは皆無に等しい。ただただわたしがわたしの思いを発散(?)し続けているだけで、投げたボールはブラックホールに吸い込まれて終わりみたいな感じになってるんだな。もちろん反響がまったくないとは言わない。多少はあった。けれど、そうしたものはわたしへの批判であり、攻撃であり、とてもではないが心安まるものではなかった。あとは、わたしは日本語で書いているのに、全文英語の怪しげな宣伝がコメントされてくるくらい。
 そんな状況でやる気を維持できるわけがなく、賞賛やおほめの言葉が少しはほしいとわたしは思ってしまうのだった。(以前、たった一人だけ、わたしの記事を絶賛してこのブログにリンクを張ってくれた人がいたけれど、今その人どうしてるかなぁ)
 そういうわけで、多くの人にこのブログを読んでもらうためにも、なぜアクセス数が伸びないのか考えてみることにしようと思う。そうすれば、その理由をつぶして改善していけば、きっとアクセス数は伸びていき多くの人に読んでもらえるに違いない。
 理由かぁ。思い当たることが多すぎる。では一つずつ挙げていこう。

 ①文章が長いから。
 たしかにこれはあると思う。今の人は長文を嫌う傾向がある。もうズラズラ書いてあるだけで、戻るボタン押すよね。役に立つかどうか、という観点からしか、情報収集という観点からしかブログを訪れないから、役に立たないと判断されただけで撤収。別のページへGO!!

 ②文章が面白くないから。
 だいたい昨今では真面目な文章なんて流行らない。自分の自由な時間で堅苦しい文章を読もうなんて思う奇特な人はそうおりませんよ。それにわたしの文章がとにかく面白くないのだろう。これを言われてはおしまいだけれど、本当のことだろうから仕方がない。

 ③文章が役に立たないから。
 星の文章は人間を支えている思想的なものだから、すぐに役には立たない。人間をいわば土台から根っこから支えるようなことをおもに書いているのだ。だから、こういうトラブルが起こった時にはどうしたらいいのか、みたいな即効性や実用性とは遠い。役に立たない。たしかにその通りだ。

 ④わたしに肩書きがないから。
 もしわたしが東大生だとか東大卒だとか、大学教授だという肩書きを使えたら、きっとアクセス数は何倍にも増えることだろう。あるいは、何かユニークな職業についていたり、お金持ちだったり、社会的な地位が高ければ、多くの人が関心を持ってくれることだろう。しかし、わたしには肩書きがない。つまり、ハクがないのだ。だから、たとえどんなにわたしが素晴らしい記事を書けていたとしても、いいことを言えていたとしても、まず読もうと思ってもらうことさえ難しいのだ。みんな当たり前だけれど、三流のものには興味がない。選ばれるのは一流のものだけなんじゃないかっていう厳然たる事実がある。

 ⑤キリスト教エッセイがメインのブログだから。
 エッセイでさえも読まれない時代だというのに、さらにそれに加えて自分がクリスチャンだと名乗って、キリスト教エッセイを書いている、ということでは興味を持ってもらえなくても仕方がないのかもしれない。今は戦後のキリスト教ブームなどではないのだ。だから、少ない読者をさらにキリスト教という枠で限定してしまっているから人気が出ないのである。

 ⑥文章に専門性や独創性が感じられないから。
 人は文章を読もうと思うときには、それから何かを得られるのではないかと期待して読むものだと思う。何も得るものがないのに、つまりその文章から利益を受けないのに読もうなんて普通思わないのだ。読んでもらうためには、専門性があったり、何かの分野で特化していたり、ユニークであることが必要なんじゃないか。

 つまり、星の文章に、言うならば星という人物に魅力が足りないのだ。一番手っ取り早いのはハクをつけることなのかもしれない。何者でもない今のわたしから努力して、何者かになってその立場から面白い文章を提供する。それが最短ルートなのではないか。けれど、何かに秀でるということはやさしいことではない。お金もかかるし、時間もかかるし、労力もかかる。となると、今のまま冴えない何者でもないまま書き続けるしかないのか。
 わたしが人よりも優れているとか、抜きん出ていることって何だろう。精神疾患の統合失調症であること? 言語障害の吃音であること? キリスト教徒であること? まぁ、それくらいだろう。それらをもっと効果的に生かしていくためには、どうすればいいのかな? そこに活路があるはずなのに、どうすればいいのか見当がつかない。そもそも、このブログ、何のためにやっているのだろう? 自分の考えを公に発表するためなの? それとも文章修行としてやってるの? はたまた収益を得るため? そうか。目的がはっきりしてないんだな。だから、ブレるんだ。全体に一貫性がなくて、行き当たりばったりになってるんだ。
 目的。何かをやることには必ず目的がある。だから、このブログにだってちゃんと目的があったはずなのだ。あるはずなのだ。それを思い出す。あるいは思い出せないのなら、新たに目的をつくる。それをやらないと目的にはいつまで経ってもたどりつかないよ。というか、目的がぼんやりしていては、いつまで経っても目的地にはたどり着かない。だから、今わたしは迷路の中に入ってしまっているんだな。要するに迷子なのだ。
 このブログの目的、しっかりと腰を据えて考えてみます。そして、自分ではっきりとそうだと思える目的を立てることができたら、それに向かってしかるべき文章を書いていこうと思います(って何で敬語?)。この記事も最後になろうかというところで、一番大切な基本の「き」を思い出すことができて書いてきた甲斐があった。目的をはっきりさせたいなぁ。

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