アシュタンガヨガを始めて3週間でわたしに起こった変化

ヨガ星のアシュタンガヨガ日記
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 10月も終わりの下旬も下旬。わたしは意を決してアシュタンガヨガの教室へと行った。そして、あれから3週間あまり。今回はこの3週間でわたしに起こった変化を書きたいと思う。何かアシュタンガヨガだったり、ヨガを始めたいと思っている人たちの参考にでもなれば嬉しいかなと思っている。
 というわけで行ってみましょ~(何かノリが軽いけれど大丈夫かな?)。

 ①より穏やかになったらしい(母談)。
 わたしはヨガを始めて1年半くらいになる。まだまだビギナーで初心者なんだけれど、それでもまず綿本彰先生のDVDを見ながらヨガをやり始めて心身の変化を感じた。穏やかになってきたのだ。何ていうか、キリキリ、カリカリしなくなって、ネガティブな空気を放つことが劇的に少なくなった、と言ったらいいだろうか。で、その穏やかさがさらにアシュタンガヨガの教室へと練習に行くようになってから加速したらしいのだ。母がわたしにそう言うのだ。たしかに、わたしも心身の状態の変化を感じている。何ていうか、ワイワイしてしまう時もあるんだけれど、それでも何ていうか心が鎮まっているって言ったらいいのかな。波風が立つことは立つものの、それでも精神状態がとても静かになってきた。母曰く、「より穏やかになった」。「より」というのは前もヨガをやるようになって穏やかになったけれど、それよりもさらに穏やかになったということ、らしい。精神状態が森に近くなった(ってうまくたとえてるのかな?)ってことなんだと思う。鬱蒼と木々が茂る森。わたしの精神状態は時々山火事が起きますけれど、いつもは何もない静かな森になっているようなのです。

 ②目が大きくパッチリしてきた(ような気がする)と思う。
 何かね、目が大きくなったみたいなんだ。何でだろう? アシュタンガヨガの何がわたしの目を大きくさせたのかそれはちょっと分からない。でも、パッチリしてきたような気がする。それは目は心の窓だから、目が大きく開いてパッチリするっていうことは浄化されてきたってことなんじゃないかな、心身共に。目がしっかり開いているって言ってもいいかもしれない。そりゃあそうだよ。アシュタンガヨガの慣例というか、一般的なやり方に従って、朝3時頃に起きて、夜は7時とか8時に寝ていれば、そりゃあ完全朝型で目がパッチリとしてくるはずですよ。うーん、他にはドリシティって言ってアシュタンガヨガではポーズの一つ一つの動きに対してどこを見るかっていうことがしっかりと決まっているから眼力というか目力がつくんじゃないのかなぁ、というのがわたしの推測。ポーズをしている間は目を泳がせてはいけないんだ。あっち見たり、こっち見たり、ポーズをしながらキョロキョロするっていうのはダメでその一点にひたすら集中する。集中して見るんだ。わたし自身の感覚としても、今まで物を何となく見ていたのがしっかりと見るようになった気がする。だから、電車の中で女の子をしっかりと見るものだからちょっと浮いているかもなぁとも思う(笑)。しっかり見る。それがアシュタンガヨガでは大切なことのようなのさ。

 ③物欲、知識欲がなくなってきた。
 アシュタンガヨガをやるようになって、自分の中で軸のようなものができたのか、ここんところの変化の中でも一番分かりやすいのが物欲、知識欲が減ってきたということ。まだ完全にはなくなっていないけれど、それでも何か減ってきたと思う。これは感覚的なだけではなくて、実際わたしは家計簿を付けているからよく分かる。ヨガ教室へと行くために必要な物など(下着、Tシャツ、靴、靴下)は買ったけれど、それ以外のたとえば本だったり何か細々としたものはほとんど買っていない。家計簿の支出が何だか今までよりもスッキリとしてきた。実際、アシュタンガヨガを始めてから生活の軸がヨガ、みたいな感じになったものだから、それ以外の欲求というか欲望が抑えられてきたみたいなんだ。ヨガのいいところっていうのは、体一つでできること(もちろんヨガマットは必要だけれど)。ものすごく高名な先生に教わるんだとか、自分がヨガを教えたくてそのために資格を取ったり、そのための学びをするんだとなれば結構お金はかかるけれど、そうでなかったらまぁそんなにお金はかからない。今まで他の物にいろいろ向いていた欲望をかなえるために使っていたくらいのお金をヨガに向ければ十分いけるのだ。ただ、何かよく分からないけれど結構アクティブなヨガをやっているせいか、性欲だけは増してきたような気がする(ってそれは煩悩だろ、執着だろ)。逆に言えば、心身共に強くなって性欲の方も亢進して強くなってきているってことなんじゃないかなって思う。で、そう言えば思い出したのが、昔テレビでプロレスラーの控え室か何かにカメラが入ったんだけれど、リポーターの芸人が「何でこんなにたくさんエロ本があるんですか?」ってビックリしていたな。それもそのはず。だって体を動かしてたくましくすれば下半身の方もたくましくなるもんなんだよ、きっと。性欲があるというのは生命力が高まっているれっきとした証拠でしょう。
 それから知りたいという気持ちも薄れてきた。もちろん、ヨガとかアシュタンガヨガに関する本は読んでいる。でも、それはあくまでも補助なんだ。メインはヨガをやることであって、知識で完全武装して固めるというのはちょっと違う。アシュタンガヨガの、知識とか理論ではなく実践重視という伝統のあり方からモロに影響を受けているわたしのようなのです。最近あんまり知りたいとか思わないな。知識欲がわいてこないんだ。でも、それも良くとらえればそれだけ現実的になってきたということなんだとも言える。理屈とか理論がすごく大事だということも分かってはいるものの、それ以上にいかにこの現実をこの肉体をもって生きていくか、どのような生き方をしていくのか、ということへと意識が向かうようになってきたんだ。

 ④パソコンを長時間やってもほぼ不調にならなくなった。
 毎度恒例のぐだぐだ不調日記でパソコンとポルノで不調になりましてのぅ、とぼやき続けてきたわたしなんだけれど、アシュタンガヨガを始めてからしばらくしたら何とパソコンをやっても昔のような不調にならなくなったのだ(まぁ、100%ならないとまでは言い切れなくてわずかに不調になることもあることにはあるけれど)。これはすごく大きいことだと思う。と言いつつもそれだったらパソコンとかネット自体やめればいいだけだろ、とのお声が聞こえてきそうで、たしかにもっともではある。これはおそらく心身が強くたくましくなってきているから、そういったパソコンなんかのスクリーンなんかから受けるダメージも少なくなっているということだろうと思う。言うならば、運動をたくさんしていてたくましい人が多少体に悪い物を食べてもそんなに影響を受けないのと同じようなことじゃないかな。生命力とか基礎体力が上がってくれば有害なものにふれても大丈夫になる。で、それで調子が悪くならないものだから結構パソコンをやってしまっているわたしに母が「やりすぎない方がいいよ。パソコンは目とか体に悪いんだから」と注意されてやめるという感じなんだ。もしかしたら次のステージへと上ろうとしているのかもしれない。快調がどこまでも快調になっていく、という次のステージへと。これはありがたい。でも、やりすぎは厳禁だよな。ごもっとも。

 ⑤疲れや不調からの回復が早くなった。
 これもそうそう、きっとわたしの生命力が高まっていて、自然治癒力のようなものが上がってきているからだと思う。もうこれは明日はアシュタンガヨガの教室なんか行くのは絶対無理できっと寝込んでいるだろう、と思うほど疲れていたのに、一晩寝たら「治った~!! 復活~!!」ということがあった。これって今までのわたしでは考えられないことだった。そこまで疲れていなくても次の日、疲れを持ち越して寝込んでいることがあったくらいなのだから。疲れだけではなくて不調になった時にもすぐに回復するようになった。何かわたしにすごく不思議な力が働いているんじゃないか。そんな風にしか思えない。ヨガの神秘的な何かが、それもアシュタンガヨガの力が働いている。そうとしか思えない。

 とここまでヨガの効能を書いてきたわけですが、言うまでもなくこれらを求めてやらない方がいいわけです(って何を言い出すんだ、意味不明だよっていう感じですよね)。つまり、これらはおまけみたいなものなんです。インドの聖典『バガヴァッド・ギーター』によると結果を求めて何かをやるというのは良くないらしいのです。なぜかと言うと、そうしてしまうとそこには執着が生まれてしまうから。結果を求めればそれが得られればまだいいものの、得られなかった時には「何でいい結果が出ないんだ」とネガティブな感情がわいてくる。だから、何かをやってその結果が良くても悪くてもただそれを等しいものとして受け入れることが大事だとのこと。そして、何かをすること、行為は行為のためにやり、すべて神に捧げる。結果には執着せず、良くても喜ばず、悪くても落ち込まない。ただ、あるがままにそれを見て受け入れる。そういう姿勢が大事だと聖典は言うのです。えてして、大抵怒りとかネガティブな感情がわいてくる時というのは結果を求めてそれが得られなかった時、というのがほとんどだと思う。一生懸命勉強したのにテストでいい点数が取れなかった。あんなにあの人に親切にしたのに全然距離が縮まらないし、こちらがした親切に対してお返しをしてくれない。そういった時に、すべてその結果を手放してみる。結果に執着せずただその結果をありのままに見て受け入れる。良い結果でも有頂天に喜ばず、悪い結果でも落ち込まない。というのも、インド哲学の考え方ではこの世が終わってもまた来世があるのだからのんびりやっていこうよ、ということなんだと思う。また生まれ変わって輪廻を繰り返すなら来世がある。だから、あんまりこの現世でカリカリしなさんな、ということ。と、偉そうに書いたけれど、わたしは凡人だからこれは頭でそういうことだと分かったつもりになっているだけで実感までは伴っていない。まだまだ修行中なのです。でも、自分がやることに見返りを求めないで、自分がやることはその行為も結果も神様に捧げるというのはすごく素敵な生き方じゃないですか? 少なくともわたしが、わたしがとか、これはわたしのもの、何が何でも自分が成功を手にしたい、なんていうガチガチの自己中心的なあり方からは脱することができるはず。自分のためにやるのではなくて、また、見返りを受けて結果を得るためにやるのではなくて、大いなる神様に自分がやることもその結果もすべて捧げる。そうした視点を得る時、何か視野が開けていくんじゃないかとわたしは思う。
 まだまだわたしはバガヴァッド・ギーターの境地である土くれと石と黄金がみんな等しいようには見えない。どうしても黄金が価値があり尊いものだと思ってしまう。でも、それらを本当に透き通った透徹した眼差しで眺める時、きっとすべては等しく平等に見えるのだろう。幸福も不幸も、いいものも悪いものも、善人も悪人も、みんな同じ。まさにこれはラヴ&ピースな境地なのかもしれない。何をも区別せず、何をも排除しないし歓迎もしない。ただ、それはある。あるのだからある。あってそれらに区別はなく本質は一つですべては平等。つまり、すべてのものに神を見る。な~んて分かったようなことを言っているけれどまだまだその境地からは遠い。だからこそ、ヨガをやるのです。ヨガをやり心を鎮め、眼差しを浄化するのです。静かに穏やかにするのです。そのためのアシュタンガヨガだとわたしは思っております。
 以上、アシュタンガヨガ歴3ヶ月の星がお送りいたしました。長文読んでくださりありがとうございます。それではまた。



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