勝ち負けを超えた先にあるもの

いろいろエッセイ
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 わたしは勝ちたかった。勝って勝利に酔いしれて、特権を手に入れて、お金も手に入れて、それにふさわしいようなレベルの高い生活を送って人生を満喫したかった。
 が、人生はそうそう甘いものではないことを高校時代に思い知らされて、世間で言うところの成功するためのレールに乗れないまま40歳近くまで来てしまった。
 無職の障害年金暮らし。全然成功していないし、ダメな生き方をしていると言ってしまえばそうなるのだろう。
 この世の中はやはり優秀な人たちが引っ張っているのだと思う。そして、力を持った人たちが牛耳っていて自分たちにとって都合のいいように持って行こうとしている。何も陰謀論を展開したいわけではない。でも、わたしにはそのように見えて仕方がない。そして、頭のいい人、あるいは一芸に秀でた人がたくさんのお金をもらえるようになっている。ということはそうではない人というのはいつまでも底辺を這いずり回っていなければならないということを意味する。もちろん一念発起してこのままではダメだと逆転人生を狙う人もいる。でも、それすらも(というかその枠組みさえも)やはりお金がある方が有利なわけで全然フェアじゃない(大学受験は金の力が物を言う。金がなければいい塾にも行けないし、参考書だって買えない)。あるいは頭の良さではなくて一芸に秀でる路線で行こうとしてもなかなかその道で行くというのは簡単にできるものではないのだ。有名な文学賞は受賞者が1名なのに対してそれに2000人近い応募がある(倍率2000倍)。うむ、険しいのだ。
 と、はてと考える。別に勝たなくてもいいんじゃないの、とふと思うのだ。というか勝ったところでそれが何なの、と。まぁ、こういうことを言うのは負け惜しみだとも言える。わたしが頑張ってもおそらくその成功の道を歩くことはできないだろうから負け惜しみを言っているだけ。手に入らない葡萄をすっぱいと言ってみたり、その葡萄を手に入れたところでたかが知れていると言ってみたり。要は負け惜しみなのですよ。でも、どんなにそういうことを言ってみたところでやっぱりその葡萄がわたしは欲しいのだろう。正直に胸に手を当ててみればその葡萄ほしいなぁって思う。それが手に入らないことを、手に入れようとしないことを自己正当化しようとしているだけで。
 勝つといいことって何だろう? まず、嬉しくなる。誰かに勝つとその人に勝ったという優越感と満足感に浸ることができる。とにかく嬉しい。特に自分が一番になってすべての人に勝つと天にも昇る嬉しさになる。そして、勝つと特典も付いてくる。それはお金だったり、人々からの賞賛だったり、地位や名誉だったり、尊敬されることだったり、いろいろな素晴らしい特典が付いてくるんだ。
 でも、この勝ち負けのゲームで忘れてはならないのは負ける人が圧倒的多数であることだと思う。1番になった人がすべての人に勝ったということは言うまでもないけれど、それ以外の人はすべて敗者なのだ。輝かしい一握りの勝者が生まれるためにはたくさんの敗者が必要。そして、その勝者は特典を得られるけれど敗者には得られない。何かをやって競えば必ず1番からビリまで出てきてしまう。また、その競争に最初から参加しなかった棄権した人も含めれば負けた人というのはさらに増えることになる。だから競争というのは多くの負けた人のおかげで成立しているとも言える。全員が1番なんてことはないんだからこれはごくごく当たり前のこと。
 競争に勝つと嬉しい上に様々な特典も付いてきていいことずくめだから人は競争に勝とうとする。でも、よく考えてみてごらんよ。人間、100年以内にはどうあがいたって死ぬのですよ。死ぬ間際になって過去の栄光を自慢話か何かのようにする老人になりたいとあなたは思うだろうか。あるいは死ぬ間際になって過去の栄光がすごすぎて死ぬことへと気持ちを切り替えていけないというのもどうかなぁって思う。「俺はすごいんだぞ(あるいはすごかったんだぞ)」と最後まで威張りながら死んでいく人ってどうなんでしょう。「俺はこれをやって、これも俺がやったことで、俺の部下はこんなに立派に成長した。俺は大金持ちだ。みんなから尊敬されていて、愛されていて、注目されていた」なんて言われてもねぇ。わたしだったらその人に「それは、それはすごかったんですねぇ」と愛想笑いをするだけ。その社交辞令的な愛想笑いを得るためだけにこの人がここまで頑張ってきたのだとしたらそれって「チ~ン、ご苦労さん」って感じじゃない? 何もわたしはその人をこき下ろしたいわけではない。ただ、本人がその事業なり、仕事なりをやりたくてそのことに幸せを感じていたのであればいいのだけれど、人からほめられたり尊敬されるためという方向にシフトしてしまっていたのだとしたらすごく残念だと思うのだ(わたし個人の意見ですけどね)。どれだけ偉大なことを成し遂げたとしても、一言、「だから何?」と言われてしまえばそれでお終いなのだ。
 そう考えていくと、わたしは成功という葡萄を食べたい(手に入れたい)気持ちも正直なところはあるのだけれど、でもそれを手に入れるためだけに自分の時間を削って多大な労力を注いで、というのはやりたくないんだ。だから、今のままなんだよ、と言われてしまえばその通りなのだけれど、お金は生活していけるだけあればいいし、物をため込まないような暮らしをしていけば広い家にだって住む必要はないし、必要最低限の食事であっても自炊するなどして工夫すればそれなりに安く美味しいものは食べられる。だとしたらあえて苦しい成功の道を邁進しなくてもいいんじゃないの、と思うのだ。
 わたしが求めるもの。それは毎日を元気に健やかに送ること。心穏やかに日々を過ごすこと。もちろん、お金はあればあったで生活のレベルは上がるから歓迎なのだけれど、しんどい思いをしてまでそのレベルを上げたいとは思わない。と、なると結局今のままで案外満足できているようなのだ。
 成功しているかどうか、という尺度から見ればわたしはダメな無職のおじさんだろう。でも、別の尺度、たとえば毎日心穏やかかどうか、という尺度から見れば決して悪くない。だから、そのものの価値をはかる尺度だったり、いわゆる基準を何に置くのかというのはすごく大事だと思う。
 一方、働いていればそれでいいのかと言えばそれも違うと思う。働いていて毎月一定の収入を得ている。それが尊く素晴らしく価値のあることだということをわたしも認める。一生懸命働いてくれてありがとう、お疲れさまとねぎらいの言葉をかけたいくらいだ。でも、仮にその人が仕事が負担になりすぎていてストレスがたまっていて、その反動で大量に買い物をしてしまっているとか、暴飲暴食に走っているとか、もうこの生活が嫌で死にたくて仕方がないとか、そんな感じだとしたらちょっと違うと思うのだ。それだったら無職で障害年金あるいは生活保護で暮らしていても心穏やかな方がいいのではないかと思わずにはいられない。また、社会的に成功していてもかえってそのことによって心の平和を乱して荒れた生活を送っている人だっている。成功している、働いている。それさえできていればその中身だったり生活の質を問わなくてもいいなんてことはない。その人がその生活を送りながらどういう精神状態でいるか、幸福感を感じることができているかどうか。それが大事だと思うのだ。
 さて、ここまで書いてきたわけだけれど、勝ち負けを超えた先にあるものって何なんだろう? それは平安なんじゃないかとわたしは思う。勝ったり、負けたりを人生で繰り返しながら、それでもその先にあるもの。そうした勝ち負けでは判断できないもの。それは平安(特に心の)ではないだろうか。わたしは平安が得られればそれでいいと思う。逆に何かをやることによってこの心の満足とも言ってもいい平安から遠ざかるのだとしたらやっぱりそれは違う方向へと向かってしまっているのだ。何も宗教だけに平安があるのではなくて、お散歩をして心が穏やかになって平安を得るとか、美味しいお料理を作って「美味しいなぁ」っていう平安を得るとか、読書をしていてすごく心が落ち着いてこれまた平安が得られたなぁとなるとか、毎日の暮らしのささやかな何かで平安というものは得られると思うんだ。
 勝っても負けてもくさくさしなさんな。勝っても心の穏やかさは得られない。つまり、平安は得られないんだから。それよりは日々の当たり前の生活をしっかりと噛みしめて味わっていった方がいい。小さな幸せに喜びを見出した方がいい。ま、勝ちたい人は勝っててくれればいい。「俺はすごいんだぞ」と誇示してくれていればいい。わたしはその人にささやかな微笑を贈りましょう。「すごいんですね」と微笑んであげましょう。そして、その人が競争に疲れて心も体もボロボロになってやってきたらお手製のスパイスカレーでもふるまいつつ話を聴いてあげましょう。
 勝ち負けを超えた先にある平安を忘れないように、毎日を楽しく心穏やかに過ごせていけたらいいなと思う星なのでした。

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