人間もセミのようなものだから

いろいろエッセイ
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 昨日の夜、寝る前にSEO対策の本を読んだ。これだけブログのアクセス数なんてどうでもいいなどと豪語していたものの、やっぱり多くのアクセス数が得られることに越したことはない、と思い読んだのだ。が、読めば読むほどわたしのブログのアクセス数が少ないのはもっともだということが分かり、少々意気消沈してベッドに入って就寝したんだ。
 Googleが求めているコンテンツは検索した人の疑問だったり問題を解決してくれるようなコンテンツのようで、一方わたしのブログと来たら全然それに当てはまらない。自分の思っていることや考えていることを正直に綴っているだけで、検索してくれる人たちの疑問やら問題を解消しようなんていう気はさらさらないのだ。要するにわたしのは自己満足的なコンテンツでしかなく、それをGoogleは質の低いコンテンツと見なすのだ。だからなのだろう。わたしの記事の半分くらいは検索エンジンのGoogleに載せる必要なし、とされているようでそれそれはお寒いことになっている。Googleからあなたのコンテンツは価値がないですよ、と突きつけられているわけで、まぁ、たしかにそうかもしれませんな、と言うしかない。
 気持ちを沈ませてベッドに入ったせいか、朝の目覚めもあまりいいものではなかった。何かやる気がしなかった。でも、起きました。朝の4時半にです。そして、アーユルヴェーダ的な舌磨きや白湯のみなどをして少し落ち着いたところであまり気乗りがしなかったものの、早朝の散歩へと出掛けたのだった。
 今日は曇っていてあまり暑くなかった。朝の早い時間ということもあって暑くないわけだけれど、それにしてもひんやりとしていた。そして、森の公園に到着。公園の中の木が生い茂る道を2、3周した。それからベンチに腰掛けて水筒の水を飲む。公園には大きな木がたくさん生えていて、今は夏だからセミが鳴いている。まさに大合唱だ。セミの声に聴き入る。何だかすごくいいBGMだ。夏の朝らしいさわやかなセミたちの声。
 と、彼らの鳴き声を聴いていたらあることに気付いた。それは人間もセミと同じようなものではないかっていうこと。もちろん、人間とセミはほ乳類と昆虫で違うし、生きられる時間だってセミが1週間か10日そこらなのに対して人は7~80年は生きる。でも、この異なる違っている両者に共通のことを見出した。それはどちらも死ぬということ。セミの泣き声を聴いていたら、今鳴いているこれだけたくさんのセミたちも10日後くらいにはみんないなくなっているんだな~、としみじみしてきた。それと同じように、今生きている人間もことごとく100年後にはみんないない。10日くらいでセミがコロっと死ぬように人間も時が来ればこれまたコロっと死ぬ。
 この言われてみれば当たり前のことに気付いてわたしははっとした。セミの中にも体が立派なセミもいればひ弱なセミもいることだろう。そして、鳴き声が大きなセミもいれば小さなセミもいるだろう。また、もしかしたらだけれど、モテモテのセミもいればモテないセミもいるのかもしれない。でも、そんなことは関係なくすべからく10日もすればみんな死んでいる。何てあっさりしているんだろうと思う。何てこだわりがないのだろうと思う。一言で言えば無常。
 だから人間にも頭のいい人もいれば良くない人もいる。体が丈夫な人もいれば病弱な人もいる。お金持ちもいれば貧乏人もいる。幸運が続いている人もいれば、不運続きの人もいる。歌がうまい人もいれば音痴な人もいる。でも、そんな個性があり一人ひとり違う人間だってセミの場合と同じように、時が来ればセミが夏の終わりにコロリと死んでいるように死ぬのだ。わたしはこれが何て痛快なのだろうと思う。最期は死んでコロリ。身も蓋もない話のようだけれど、どんなに偉業を達成しようとも人類の発展に寄与しようとも多くの人々から喝采の嵐を浴びようとも、いずれはコロリンと死ぬだけなのだ。
 だったら別にいいじゃん、って思った。ブログのアクセス数が少なくて収益が0円でも、最終学歴が高卒のままでも、新人賞が取れなくても、モテなくても、結婚できなくても、子どもを持てなくても、車の免許が取れなくても、新築のマイホームが立てられなくても、広い家に住めなくても、猫をたくさん飼えなくてもさ。まぁ、中には人間コロっと死ぬ存在だからこそ自己実現を果たしてやりたいことはことごとくやって夢はかなえるんだという人もいることだろう。でも、わたしはあえて問いたい。夢をかなえてそれが何なんですか、と。って挑発してる? ケンカ売ってる? 何かを頑張って努力して一生懸命生きている人を馬鹿にしてる?
 でも、道に転がっているセミの死体を見るたびに、わたしたちが何かにこだわって手放そうとしないことって実はどうでもいいことなんじゃないかっていう気がしてきてならないんだ。でも頑張りたい人は頑張ってくれていいんですよ。それがその人にとっての幸せなんだろうから。頑張って自己実現を果たしたり、夢をかなえるのがその人にとっての幸せなんだから否定はいたしません。けれど、もっと大きな視座に立つのなら、自己実現だったり夢をかなえてなんぼとも言えるのだ。たしかに努力して積み重ねていって目標を達成することは尊いし素晴らしい。でも、それらを鋭いまなざしで眺めるのなら、コロリで、つまり死んで終わるのだということにたどり着いてしまうようにわたしには思えてならないんだ。
 コロリ。セミと同じように人間もいつかはコロリ。これって強烈じゃありません? 少なくともわたしにとっては凄まじい衝撃だった。夢や自己実現やら何やらが吹き飛ばされてしまったようなそんな感じ。今、その吹き飛んでしまった夢と自己実現を追いかけているところであります。
 でも、こんなことを言って夢や自己実現を無意味だというような感じで嘲笑いながらも、かく言うわたし自身、結局自己実現がやめられそうにないというのが本音のところだったりするんだ。じゃあ、セミのコロリに気が付いた体験は無意味だったのかと言えばそんなことはなくて、しっかりと意味はあったしそれなりに学ぶところはあった。それはほどほどの自己実現、そして、ほどほどに夢をかなえようって思えたこと。自己実現と夢をかなえることを完全に放棄してうっちゃるんじゃなくて、人生のスパイスとしてそれらを活用すると言ったらいいだろうか。人生の薬味なんですよ。自己実現と夢をかなえることは。でも、これらを主食、パンとかご飯みたいに大量に食べるっていうのは何か違うように思う。あくまでもスパイス。料理をひきたてる存在として活用する。それくらいでいいんじゃないか。いずれはコロリと道にひっくり返っているセミのように死ぬのだから。
 セミも人も時が来ればコロリと死ぬ。だからこそ、今を味わって生きていきたいとも思う。わたしは今、セミで言うならでっかい声でミンミン、ミンミン鳴いているところなのだろう。だからこそ、だからこそ今を味わって精一杯やれるだけのことをやって生きていきたいのだ。やれるだけのことって? それは毎日をしっかりと生きること。ちゃんと生きること。となれば働けコールが連呼されそうだけれど、わたしはわたしのペースで生きればいいのだ。人生はセミの一生ほどではないものの、それでも長くはない。その長くはないあっという間の人生を悔いのないように生きていきたい。そして、それは人によって求めるところが違うから自ずとそれぞれ異なってくる。
 セミの短い夏のような人間の生涯、あなたはどう生きてコロリと死にたいですか?

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