与える

いろいろエッセイ
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 わたしは何を与えることができるのだろうかと考えてみる。今までを振り返ってみると、わたしは何かを与えてもらうことばかりを求めていたような気がする。自分が何かを誰かに与えるとしても、喜んでもらうことや感謝されることを自然と相手に要求していたことに気付かされる。だから言うまでもなく見返りを求めていたし、純粋に与えていたとはとてもではないが言えない。
 そしてタチが悪いのは相手から見返りが得られないとたちまちわたしの心は悪感情に包まれていた。ブログにしても、こんなに一生懸命記事を書いているのだからそれ相応に評価されなければおかしいとか、何であんなに手抜きの短文ブログが自分よりも順位が上なんだと怒ってさえいた。
 でも、もうそういう態度を取ることはやめるのだ。つまり、そういう姿勢は見返りを求めることによって今を生きることができていないからだ。人間は純粋に相手に与えている時に今を生きることができるとある本には書かれていた。
 今を、生きる。過去や未来に縛り付けられるのではなくて今を、この今という瞬間を生きるんだ。そのために有効なあり方が与えるという姿勢であり生き方なのだ。そしてその生き方は何よりも与えているわたし自身が豊かになることができる。自分本位に何を与えてもらえるかということにしか目が行っていないとしたら、そこにあるのは利己的な貪欲さとどこまで行っても満たされない怖れの心ではないか。
 わたしにできる与えることって何だろう? 身近なところでは母においしい食事を作ってあげること。ていねいに家事をすることだろうか。それも見返りは一切求めないで、ね。自分が今を生きるために与えるのだ。それからブログの記事を書くこともできそうなことかな。それもリターンを求めずに奉仕する気持ちでね。人のためにやるんじゃなくて何よりも自分のためにやるんだ。それが結果的に誰かに喜んでもらえたり、役に立ったりしたらそれはそれでおまけみたいな感じで喜ぶ。でも基本は人のためではなくて自分のためにやるんだな。
 神様も与えてもらうことしか考えていないような利己的な態度を取ることよりも、与える人になることの方を望んでおられるんじゃないかな。
 仮にわたしのブログ記事がそれ相応の評価をされなかったとしても落胆することなくやっていけたらと思う。少なくとも見返りが得られなくても、与えることによって今を生きることができるのだから、それが何よりの報酬ではないだろうか。
 やったことに対してリターンを求めるとしたら、それが得られない時、失望したり怒りがわいてきてしまう。だから見返りを求めない。その姿勢で、やりたいからやっているんだという姿勢でいる時にはもうそれだけで、やるだけで満たされるはずだ。今を生きることができていて、今に集中できているはずだ。
 そういうわけでブログのほう、もう少し力を入れてみようかなって思ってる。人のためではなくて自分のためにやっていけたらと思う星なのであった。

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