俺が幸せにするから?

いろいろエッセイ
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 今日のNHKの朝ドラでは夏のすもう大会の真っ最中で、その登場人物の一人であるサトルが優勝して、ヒロインにプロポーズをするというところで話が終わった。が、このプロポーズ、うまくいかない。これだけ男気あふれるサトルの言葉も空しく、ヒロインはそれを受け入れないのだった。
 わたしははっきり言って「俺が必ず幸せにするから」的な言葉が好きではない。サトルは俺が懸命に働いてヒロインに店を持たせてやるからとまでの悲壮な覚悟を示したけれど、幸せというものは物質的に充足されたらそれで必ずつかみ取れるものではない。そうではなくて、幸せとはその人が感じるもの、感じ取るものではないかと思うのだ。だから、わたしがプロポーズの言葉をもしも意中の女性にするとしたら、少なくとも「俺が幸せにするから」みたいなことは言わない。そうではなくて、「一緒に人生を歩んでもらえませんか?」と言うんじゃないかと思う。
 わたしには誰かに幸せだと思ってもらう手助けはできるけれど、最後にそれをどう思ってもらえるかというのは本人次第で、その人を幸せにすることなんて大それたことはできない。
 わたしたちはともすると誰かを幸せにできるものだと過信してしまう。自分がここまでやればきっと相手は幸せになれる、とまで思ってしまうのだ。でも、相手の幸せは相手の心次第だよね。決してそれをこちらが操作したりすることはできない。もちろん幸せだと思ってもらう方向へと向かわせることはできる。あたたかい言葉をかけたり、共感的な態度を取ったり、何かプレゼントをしたり、苦しい時に相談に乗ってあげたり。でも、それを最終的にどう受け止めて、つまりどう解釈するかはその人次第なのだ。
 サトルの言動は昔の日本の良き時代の典型的なやつでもある。男がバリバリ死に物狂いで働いて、女は家を守る。そして、その男が稼いできたお金で女はゆとりのある暮らしを営む。でも、ヒロインの生き方は違う。家を守るどころか、バリバリ仕事をしてゆくゆくは自分の店まで持ちたいと思っている。それに、彼女の言葉にもあった通り、自分の店はサトルのサポートで持つのではなくて、自分の力で持ちたいと願っているのだ。そうなれば、明らかに平行線ですれ違いだ。相手に求めるものが完全に齟齬を来している。それにサトルは以前の回で子どもは4人とか5人欲しいって言ってたっけな。それだけの子どもの面倒をみるとしたらヒロインが仕事もやめなければならないだろうし、どちらにしろヒロインにとっては前途多難だ。
 もちろん、世の中にはいろいろな価値観や思想信条があるから、こうしたサトルのような男を熱くて頼りがいがあってかっこいいと思う女性もいることだろう。女はやはり家を守って子どもを育てて、男に従うべきだという旧来の価値観に同意する女性もいるとは思うからだ。しかし、ヒロインは違った。彼女は自らの力で自分の道を切り開いて行きたいのだ。それに「俺が幸せにするから」と言うサトルに「わたしを縛り付けないでよ」と言いたいような空気さえ今日の回からは漂っていたのだ。
 幸せ。わたしはそれはその人が感じるもので、同時にそうであるかどうかその人が判断するものであると思う。
 逆にわたしが相手の女性から「あなたのことを絶対に幸せにするから結婚してください」ってプロポーズされたら何てそれに答えるだろうか。「わたしが幸せかどうかを決める自由を取り上げないでください」って反発するかな。それともあるいは、「じゃあよろしくお願いします」って答えるかな(ここまでこの文章を連ねてきてそのオチかい!)。それはその状況になってみないと分からないけれど、サトルのように自分の思いをぶつけるだけではなくて、相手の返答を静かに待てるだけの心の余裕がほしいものだとわたしは思うのだ。
 プロポーズを断られたサトルが人生に絶望しないかどうかフィクションながらも心配なわたしだけれど、ヒロインはあれはあれですごく誠心誠意サトルに向き合ったと思う。その場の空気に流されて安易に承諾しなかったヒロインに拍手である。星はその点、自己肯定感が低いから流されそう(汗)。ま、それはそれでこれから何とかしていくとして、今日の朝ドラは本当に考えさせられるものがあった。幸せって何だろうってね。わたしが誰かを幸せにすることが果たしてできるのだろうかってね。
 誰かを幸せにするお手伝いができたらいいな、と漠然と考え始めた星なのでした。やっぱり幸せはその人が感じるものだよね~。以上、わたしの拙い結論。

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