教訓「荷物は軽い方が動きやすい」

いろいろエッセイ
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 最近は減ってきたものの、自分よりもいい暮らしをしていたり、自分よりも高いステータスを手に入れていたりする人に嫉妬してしまうことがある。わたしも最近ある本を読んでいて、その著者のリア充ぶりに羨望のまなざしを向けてしまった。うらやましい。わたしもああなれたら。そこで終わるならまだしも、どうしてわたしはああなれないのだろう、と思い始めるとまさに泥沼で泥試合となってしまう。一人でもだえて一人で自滅する。そんな滑稽を通り越して自虐的でさえもあるまるで一人芝居。
 というか、オススメするものが高いのよ。これが難しい人はこれを買ってみて、とのことだけれど、それだってわたしからすれば高嶺の花。オススメされているサプリなどを全部買っていたら日々の食費が膨れ上がってしまって、とてもではないけれど真似なんかできない。その生活をするためには働かねばダメですな。年金暮らしのわたくしには無理でございますだ。
 でも、ふと冷静になって考えてみると、そのリア充な人だって大変なんじゃないか。そんな風に思えてきた。そのリア充生活をするためにはある程度の経費がかかるから働き続けなければならないし、その人の子どもだって大きくなってくればまた違う問題が引き起こされてくる。あぁ、何かを手に入れれば苦労の種が増える。あぁ、大変そうだなって思う。
 何かを手に入れること。それは現代社会ではとにかく望ましいことだと盲信されていて、みんな揃いにも揃って何を手に入れようかと熾烈な獲得競争をしている。これさえ手に入れれば幸せになれると必死でチャレンジして成功することなんかを夢見る。
 でも、今日、瞑想をしていたら気付いてしまったのだけれど、何かを手に入れることは同時に不自由になるということなんだ。一つ何かを手に入れる。すると一つその分、不自由になる。自由を失う。たとば何かを買ったとすれば、その買った物に対する執着が生まれる。それを手に入れるまではまっさらだった心にざわめきのような波風が起こる。だから、多くを手に入れることは同時に多くを失う。それも何よりも尊い自由を失っている。手に入れれば入れるほど、自由ではなくなってきてその手に入れたものに圧迫される。自分の能力は有限なのだから、その使える能力がその手に入れたものの維持だったり保持に費やされてしまう。その分、手間暇がかかるんだ。管理だったり、手入れだったりに。そう考えていくと何も持たない人が一番自由なのかもしれないと思う。だから、悟った人は世を捨てて、物などももちろん捨てて家族すらも持とうとはしない。
 とは言っても、わたしは世捨て人になろうとは思わないし、そうする度胸だってない。でも、持っているものが少ないことや何も持たないことに憧れを感じる。楽だろうなぁって思うんだ。そして、寂しいかもしれないけれど煩わされないんだろうなとも思うんだ。
 だから、わたしは欲望をすべてかなえて自己実現に生きる生き方を良しとはしなくなってきていて、いかにシンプルに生きるかということが視野に入るようになってきたんだ。とは言えどもわたしはお世辞にも煩悩を捨て去っていないし、まだまだ欲にまみれております(少なくなってきたけどね)。
 要するに荷物が増えれば増えるほど、体は重くなっていって身動きが取りにくくなってくる、ということなんだろうと思う。だから、身軽でいたいならあまり持たないこと。あまり成し遂げすぎないこと。偉くなりすぎないこと。こうしたことが大切なんじゃないかと思う。って世間の価値観と真逆ですけどね。
 自己実現が必ずしもいいものではないと気付いたので、わたしはこれからあまりというかほとんど偉くならないまま生涯を終えることだろう。一般大衆として生涯を終える。普通の人として人生を終える。ってちと寂しい気もしますけれど。でも、偉くなったってそれがなんぼのもんなんじゃい、とも思う。どんなに偉くなっても、空気を吸って吐いて呼吸して、ご飯を食べて、うんこをしなければ生きていけないのは偉くない人とも同じで変わらない。そして、どんなにあがいて嫌だ嫌だと泣き叫んで抵抗してもいずれは平等に死んでいく運命にある。だったら、偉くなるのは不自由な生き方なんじゃないか。って負け犬の遠吠えですけど、まあ大目に見てくだされ。
 身軽に軽やかに生きていきたい。と、いうことは。今のまま? いやいや、もうちょび~っとは偉くなりたいですよ。はいはい、矛盾しておりますね。ゴチャゴチャしてきたところで今回はこのへんで。荷物は軽い方が動きやすいぞ~、というお話でした。

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