教会生活をお休みさせてもらうことにした

キリスト教エッセイ
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 もう5年が経ち、6年目に入ろうかという教会生活。わたしは一大決心をした。それは教会へ行くのをお休みさせてもらうということ。この決断、本当に考えた。でも、考えに考えて自分なりにこの結論にたどり着いたんだ。
 教会へ行くと心がかき乱されるといったことはこのブログの記事にも書いたかと思うのだけれど、教会へ行くと、それもあの説教を聞くと気持ちがかき回されて乱されるんだ。が、そんなわたしとは対照的に教会の皆様がたは何事もないかのように説教を聞いている。わたしに問題があるのか、それとも牧師に問題があるのか、あるいは両方にあるのか真相は分からないけれど確実なのはわたしにとって教会という場所が心の平安とか安らぎになっていないということ。もちろん説教以外の礼拝後の交わり(雑談をすること)は有意義なのだけれど、何だかその教会に来ている人たちはわたしがいてもいなくてもあまり頓着しない感じで(もちろんわたしのことを気にかけて母に「息子さんはどうしたの?」と声をかけてくれる優しい方はいるのだけれど)、最近必要とされていない感がしてならなかった。牧師の説教の調子がわたしに合わなくて心が乱される上に、特に他の人たちからも必要とされているわけでもない。となれば足が遠のくのはもっともな反応でありましょう。
 わたしが今もっとも癒されて平安を感じる時というのはいくつかある。まず、ヨガをやっている時。そして瞑想している時。あとは、少しお出かけして近場の森のような公園へ行ってその中をお散歩している時。あと母と楽しく雑談をしている時も含めておこうか。そんな感じで、わたしにはわたしなりの癒しを感じる時がちゃんとあって、それによって生活は今のところしっかりと回っているし問題なくやれているんだ。とすると、あえて毎月維持献金を含めた献金をしてまで、要するにお金を払ってまで気持ちを乱されに行くこともないんじゃないの、っていう話になってくる。
 人というのはどんなにそれが正しかったり素晴らしいことだったりしてもその行為だったり場所だったりにメリットを感じることができなければ、やらなくなるし、そこへは行かなくなる。わたしもヒトという動物なのだから、マウスが条件づけられてある行動を頻繁にするようになったり、反対にそれが消去されてしなくなったりする、という当たり前の反応をする。それに、わたしはヨガという魅力的なものと出会ってしまったからなおのこと教会という場所に魅力を感じることが難しくなってしまったようなのだ。もしも、わたしがヨガと出会っていなかったら今もおそらく教会へと行っていたと思う。もっといいものを知らなければ、今あるいいものをやるのは当然のことだ。でも、出会ってしまった。
 わたしは今、ヨガ的な考え方だったりライフスタイルに魅せられている。母と一緒にクリスチャンとして食前、食後のお祈りはするものの、実質的にはキリスト教からは離れて距離を置いている感じで聖書も読んでいなければお祈りもしていない。反対に、ヨガをやり、瞑想をしてヨガのことを考えている。
 こんなわたしもヨガでは立ち行かなくなってもうどうしようもなくなったらまたキリスト教に戻ってくるかもしれない。神様にすがって「どうにもならないんです。何とかしてください神様」とまるでルカの福音書に出てくる放蕩息子のたとえのように困り果ててまた教会へと駆け込むのかもしれない。そうなったら、きっと神様はそんな放蕩息子のわたしをあたたかく「おかえり」と迎えてくださることだろうと思う。でも、今は放蕩ではないけれど、神様のことは考えずに違う生き方をしてみたいと思う。ヨガをやり、瞑想をして自分自身の人生を深めていきたい。そして、またキリスト教へと戻ってくるのか、こないのか。それは分からないものの、なるようにしかならないのだから瞬間瞬間己の欲するように素直に生きていきたいと思う所存なのだ。
 日曜日、母と一緒に教会へ行けないというのは親不孝なのかもしれない。でも、母は本当は一緒に教会へ行きたい気持ちがいっぱいなのに、その気持ちを押さえ込んでわたしに理解を示してくれている。ありがたい。本当にありがたい。
 教会生活をいつ再開するかはまだ未定で決まっていない。それ自体があるのかどうかさえも現時点では何とも言えない。こんな調子で行き当たりばったりのように見えるかもしれないけれど、人生というのはプラン通りにはいかないもの。だからこそ面白くて生きるだけの価値がある。でも、やっぱり寂しくなってすぐに再開するのかもしれない。それは分からない。わたしの人生なのだから自分に正直に心の向かうがままに偽ることなく生きていきたい。以上、ご報告でした。

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