信仰の神髄は神様に感謝して委ねること

 10月になり緊急事態宣言が解除され、教会の日曜の礼拝も短縮ながら再開され、今日で10日となる。思えばこの七週間家庭礼拝を守ったわけだが、楽なのはいいとしても何か張り合いがないというか、物足りなさのようなものを感じていた日々だった。
 礼拝ができるということ。今までは当たり前のことだと思っていたことが実は当たり前のことではなかったのだと改めて考えさせられたのだった。当たり前のことが当たり前ではない。礼拝ができることの幸せをかみしめるようになったことは大きい。わたしの中でも礼拝に対しての見方が変化したような気がする。
 教派によっては礼拝が終わるとすぐに皆帰ってしまうところもあるようだけれど、うちの教会では礼拝が終わった後、残って話をしていく人が多い。
 それを観察していると面白い。グループというほどはっきりとしたものがあるわけではないのだが、一人ひとり人間関係の作り方は異なっていて、わたしにおいてもよく話す人とあまり話さない人がいる。
 わたしと母、特に母は決まって教会員のOさんと話をよくしていて、それに遅れてわたしも話の輪に加わるといった感じなのだが、Oさんが本当に素晴らしい人なのだ。何か言うことすべてがいい空気というかオーラのようなものに包まれていて、話をするとわたしたち親子が浄化されるようなのである。とても癒される。どんな物事であっても彼女にかかると途端に魔法のようにプラスの前向きな出来事に変換されるのである。
 教会の人たちも大体みんなOさんが好きで、好きとまで行かなくとも一目置かれていて尊敬されている。一言で言うならOさんは徳のある人である。そして、敬虔なのだ。
 Oさんの何がすごいかと言えば、すべてを神様に感謝して委ねているところなのである。すごいという言葉は語弊があるかもしれない。けれど、わたしはすごいと思う。それは首尾一貫して彼女が徹底的に神様に感謝しているところが、である。あそこまで神様に委ねることができる人というのはなかなかいないだろうと思う。そして、わたしが彼女を尊敬するのは、それを見せびらかして自慢したり、人にもそうするようにと強要しないところだ。言うならばすごくソフトなのだ。人に対してふんわりと包み込むように接してくれるのである。それが人格ができているということなのだろう。わたしが、わたしがというのはとうの昔に卒業していて、老年の極みと言ったらいいのだろうか。とにかくやわらかく温かい人柄で、話すとほっとさせてくれる人なのである。
 Oさんがわたしたち親子に教えてくれたこと。それは神様に感謝して委ねることが信仰であり神髄であるということだ。この、感謝して委ねるということがなかなか出来ない。何か困難にぶつかると感謝できないし、ましてや委ねることなんて出来ない。それがクリスチャンであってもごくごく自然なことなのだろうと思う。けれど、彼女は違う。彼女は重い病気をしているのだが、それでも神様に感謝し続けることをやめないのである。
 Oさんは幸せな人だと思う。Oさんの心は平安で満たされていて何も恐れがなくて、ただただ神様への感謝だけがある。
 Oさんは言う。「私は朝起きると神様ありがとうございます、って言うんですよ。神様に生かされていることに感謝するんです」と。
 わたしが思うに基本思想が感謝することにある人というのは最強だと思う。最強とかまたつまらない表現をしてしまっているわたしだけれど、最強だと思うのだ。その人は感謝することによって嫉妬、憎しみ、愚痴、不平不満、怨恨、など負の感情から解放されているのである。そういったものは感謝することによって反転し、感謝、愛、慈愛などの良い感情になるのである。
 わたしは時々Oさんに後光があるようにさえ思う。パーっと光のオーラが彼女を満たしているように思えてならないくらいなのだ。
 もしかしたら彼女は月ではないだろうかとふと思う。月は自らは光を放たない。では、なぜ月は光り輝くのか、と言えば、太陽に照らされているからなのである。つまりOさんは神様という太陽に燦々(さんさん)と照らされており、その光を受けて彼女自身も燦々と光り輝いているということなのではないだろうか。彼女は月だとわたしは言ったが、月以上にまさに太陽並みに光を発している。そして、わたしたち親子を照らしてくれている。いい空気が彼女からわたしたちへと流れてくる。温かな光と言ってもいいかもしれない。
 神様に感謝して委ねる。このごくごく基本的ながらも極めるのが難しいクリスチャンの姿勢は生涯をかけてやっていくものではないかと思う。一朝一夕で出来るものではない。わたしたち親子には時間が必要だ。でも、感謝して委ねられるようになったらその瞬間からきっと本当の意味で幸せになれるのだろうと思う。なぜなら、Oさんは今もうすでに幸福だからだ。彼女が教えてくれた神髄ができるかどうか、なかなか難しい一生ものの課題だが、それにかかっている。なかなかこれはできないけれど、でもやろうとしている。そのようになりつつあるのだから、この基本を忘れることなく信仰の試金石にしながら信仰生活を続けていけたらと思う。そうしたら数十年語にわたしもOさんのようになっているかもしれない。そして、30代くらいの青年に、「大地さん、大地さん」と慕われている。もしかしたらそんな未来がやってくるかもしれない。
 神様が用意してくださる未来はきっと光り輝く素晴らしいものだろう。でも、未来に期待することもいいけれど、今、わたしは幸せだと胸を張って言えるようになりたい。
 神様に感謝して委ねる。その瞬間からわたしは幸せになる。そして、その幸福は生涯を終えるまで続いていき、死後には天国へと入る。Oさんが教えてくれた神髄を胸にわたしの信仰生活は続いていく。
 つづく(人生は)。

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