勉強の消化力も毎日違うのだから

いろいろエッセイアーユルヴェーダ
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 今日、アーユルヴェーダの本を読んでいたら目からうろこが落ちた瞬間があった。そのことをお話ししていきたいと思う。
 現代栄養学とアーユルヴェーダの違い。それは杓子定規に線を引くかどうかっていうこと。栄養学ではこれだけの体重の人でこれだけの活動強度がある人には何kcal摂りなさいと栄養指導をする。炭水化物何g、たんぱく質何g、脂質何gっていう具合に。
 この栄養学のいいところは数字で目標が鮮やかに示されるので歯切れがいいということ。迷わない。躊躇しない。これだけ1日に栄養を摂ればいい。以上ってわけね。
 しかし、アーユルヴェーダはそこまではっきり細かく指示をしないのだ。指示をするとしても、その時の消化力に見合った食事をしましょう。次の食事までの間に消化しきれるくらいにしとこうね。でも、まぁ、強いて言うなら、食べる量は限界まで食べないで4分の3くらいにしときましょう。固形物4分の2、液体4分の1、あと空白。
 何というか、かなりアバウトなんだよな。アーユルヴェーダって。かなりその人に任せているというか、言ってみれば主観的なんだ。全然、栄養学みたいにビシッと客観的じゃないんだ。
 でも、このアーユルヴェーダの考え方、最強なんじゃないかってわたしは思うんだ。なぜなら、その時その時に最適な食事量にすることができるから。
 人間というのは同じ時がない。いつも常に移り変わっている川の流れのようで、絶えず変化し、刻々と状態は変化していていて、まさにその状態は一期一会みたいなものだと言っていい。精神状態、体のコンディション。これらによって消化する力は変化するし、胃の空き具合だってその時その時で違う。そんな生き物というかナマモノなわたしたちに一番合っているのが、その時その時で体と心を感じて、彼らの声を聴くということ。そうするのが一番自分にやさしいんじゃないかって思うんだ。
 消化力が落ちていても一律に毎日これだけの量を食べることになっているから、と無理矢理、消化もうまくできそうもない量を詰め込む。あるいは、まだ前の食事が消化されきっていないのに、そこへ決まっているからと機械的に食事を流し込む。「決まっているから」っていうことだけれど、それって乱暴だよね。で、そんなことを繰り返しているとアーユルヴェーダが考えるには未消化の食べ物が毒素になって体にたまってしまって病気になる。こう考えるんだ。
 これって食事だけではなくて、毎日の活動にもあてはまることだとはたと気が付いたんだ。毎日、状態は違う。同じコンディションの時なんてない。だったら、その毎回違うコンディションにその時その時、最適な内容だったり活動量だったりを調整してあてはめていく。それが必要だなって思ったんだ。毎日4時間勉強します。何が何でもどんなことがあっても4時間は死守します。でも、4時間という同じ量が今日にも明日にも最適かどうかというのはその時になってみないと分からないはずなんだ。だから、わたしはその時その時、その日その日で臨機応変に柔軟に活動量を調整していきたいと思ったんだ。それが自分にやさしくてもっとも合理的な方法。そのことに気付いた。それが今日のうろこでした。
 30分経ちました。お互い自分のいろいろな消化力を大事にしていきたいものですね。それでは、じゃあね。またね。

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