気持ち悪い

いろいろエッセイインド哲学
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 昨日バス停で言われた「気持ち悪い」という言葉。その言葉が今日になって、やっぱりダメージを受けていたらしく、刃物でえぐられたかのように痛み出して苦しくなってきた。それと同時にわたしが好きなアディダスコーデもみんな言わないだけで、本当は「あの人、気持ち悪いな」と思われているのではないか。そんなことを今朝考えて、お気に入りのアディダスを身に付けることについても何だか自信がなくなってきた。いや、自信があるとかないとか、ではなくてわたしは周囲に不快感を与えていて悪いことをしているのではないか、という風にさえ思えてきてしまったのだ。わたしへの誹謗中傷だととらえたあの「気持ち悪い」という言葉もすごく的を射ているのではないか。自信が、自己肯定感がなくなってきていて、下がってきている、そんな今朝。
 そんな調子だったけれど、このままではまずいと思って、街のヨガ道場へ行くのも今日はお休みの日だし、ヨガの太陽礼拝をちょっとやってみようと思った。以前、ヨガの師匠に「練習をお休みする日にも太陽礼拝はやってもいいですか?」と質問したら「やってもいいと思う」とのことだったので早速実行してみたのだった。
 太陽礼拝をやったら自分の中で凝り固まっていたネガティブな感情が解きほぐされて、何もやる前と状況は変わっていないにもかかわらず、そういった気持ちが溶けてなくなっていった。ただ数回やっただけなのに、やる前後で気持ちが別人のようになっている。
 そして、時間もまだ早かったから最近行けていなかった森の公園へとお散歩に出掛けたのだった。
 公園に着いて緑豊かな園内を歩いていると、自分が思い悩んでいたことがどうでも良くなってきた。たしかにあのヤンキー風の若いお兄さんはわたしのことを「気持ち悪い」と言って否定した。でも、それは日本で言えば1億2000万人、世界においては80億人もいる人の中の一人がただそう思ってそれをわたしに言っただけでしかないのだ。となれば、それ以外の人からは別に批判も否定もされていないではないか。1人、それも日本中、世界中のうちのたった1人から否定的な評価をされただけで、まるでコップの水の中に一滴のインクが落とされただけでもう全部が真っ黒になってしまったかのような、そんな気持ちになるのは現実的ではない。そう思い直せた。と言いつつも、地球には80億もの人間がいるのだから、わたしを否定した彼と同じようにわたしのことを「気持ち悪い」と思う人もいることだろう。でも、誰からも批判されない、否定されないものなんてこの世界には存在しない。そんな完璧なものなんてそもそもない。いや、あったとしてもそれが完璧であることが気に入らないなどと批判されるのだ。だとしたらすべての人にいいと思ってもらえるものなんてないのだから、それを目指すのは現実的ではない。
 まぁ、理屈としてはそんな感じだけれど、どうでも良くなってきたというのは、今、お散歩をしていて、美しい木々に囲まれていて、おいしい空気を吸っていて、木々や草などのの匂いをかいでいる。だったらそれでいいじゃないかと思えたのだ。今があり、今が充実していて、今が幸せならわたしが誰かにとって気持ち悪い存在だとか、誰が美人で、誰がイケメンで、誰が優秀で、誰がお金をかせいでいて、なんてことはどうでも良くなってくる。人からどう見られようと、別に街を全裸で歩いているとか問題があることをしているわけではないし、ちゃんと服は着ていて違法なことはしていない。
 あのお兄さんが気持ち悪いと言ったのが、わたしの容姿を含めた雰囲気だったのか、それとも全身アディダスだったことなのか、あるいはその両方だったのか、詳しいことは分からない。まぁ、それならそれでいい。どんな感想を持つかはその人その人の自由だし、誰かが強制できることではないからだ。でも、それを、直接本人に言ってしまうというところがよろしくない。気持ち悪いと思ったのならそれを胸の内にとどめておくべきだ。もしも、彼のように思っていることをすべてありのままに通りすがりの人にも言ってしまうような社会になったらどうなるか? きっとそれは殺伐とした暴力的な社会となるだろう。「気持ち悪いものを気持ち悪いと言って何が悪いんだ」。仮にそう言ったとしたら、それはそういう言葉を発する人自身にも返ってくる。お互いに情け容赦ない言葉をぶつけ合うわけだから居心地がいいわけはないだろう。あのヤンキー風のお兄さんだって自分が誰かのことを「気持ち悪い」と言えば、当然、彼自身も攻撃を受けることになる。それを自分は批判したり否定する権利はあるけれど、他者にはその権利はないなどというのはフェアではない。少なくとも他者への誹謗中傷を解禁すれば、自分自身へも何がしかのそうしたものも解禁される。カウンターカルチャーを良く思っていない人たちからは厳しく批判、否定され、けなされることだろう。
「気持ち悪い」と直接相手に対して言ってしまうのは論外だとしても、わたしはそういう風に思ってしまうのは生理的、本能的なものではないかと思う。また、生殖という点においてもそれは重要な働きをする。
 わたしたちは「人は見かけではない」「見た目ではない」と言いながらも多くの場合、見た目で判断している。その分かりやすい例が、あなたの前方から人が歩いてくるとして、その人が高級スーツに身を包み、髪も美しく調えられていて、体型は長身でスラリとしていて無駄な肉がなくて、体を鍛えて自分磨きをしている感じで、肌の血色は良くとても健康的で、目は輝き、それはそれはほがらかで優しい満ち足りた表情をしていて、顔立ちは整っていて美しい顔をしている。一方、その後ろからはいつ洗濯したのか分からないようなヨレヨレでボロボロな服を着て、髪は汚れていて脂ぎっていて好き放題にしていて、体型は無駄な脂肪がたくさんついていて、お腹が出ていてだらしがない体型で、運動なんて全くしていない感じで、肌は血色が悪くて黒ずんでいて、目は死んでいて精気がなく、顔立ちは決してお世辞にもいいとは言えない。この対照的な二人に同じような第一印象を持つということはおそらくない。前者のイケメンと話をしてみたら中身がスカスカで幻滅して、後者の身なりの汚い人が実は徳が高い聖者だったということはありうるとしても、多くの人が前者に好感を抱くはずだ。
 実際、わたしたちは人の見た目、つまりは外見からいろいろな情報を得ていて、それをもとにして、その人が自分に暴力をふるったり、何か病気を持っていてそれをうつされたりする危険性がないかどうかとチェックしている。これは生きていく上で欠かせない重要な情報でこれを無視すると自分に害が及ぶ可能性が高くなってくる。もちろん、だからと言ってそれがすべてかと言えばそんなことはない。どんなに反社会的な雰囲気が服装などから漂っていて恐そうな人であっても話をしてみたら気さくで普通のいい人だったということもあるかもしれないし、見た感じが何かの感染症にかかっているようで近付かない方がいいように思えても実はそういう病気ではなかった、などということもありうる。けれど、その見た目というのはなかなか侮れない。実際、反社会的で恐そうな服装をしている人は恐い人だったということが多いし、何かのうつされるような病気のように見える人はそうであるということが概して多いからだ。そういう意味では、女性が男性よりも相手の服装だったり雰囲気などを察して、相手が安全な人物であるかどうか敏感に選別する能力が高いのは、女性が男性よりも腕力など身体面において弱いことが多くて、さらには暴力的な男性を察知して身を守る必要があるからだろう(最悪の場合、女性は妊娠させられてしまう危険性があるから事前にそれを防ぐ必要がある)。
 また、こんな話もある。これは放送大学で心理学を勉強していて知ったことなのだけれど、容姿というものはその人の発言の説得力にも影響してくる。これは心理学の実験で確認されていることで、要するに美男美女が何かを言ったり、場合によっては商品か何かをすすめたりした方がみんな納得したり、実際に買うようなのだ。これはもう日常的にTVコマーシャルでその商品をすすめているのが大抵、美男美女であることからも明らかだ。
 と、いろいろここまで書いてきた。で、結論というかわたしが思うことは、別にわたしのことを誰かが気持ち悪いと思うのであれば、それでいいじゃないかということ。なんて書くと投げやりな物言いに聞こえてくるかもしれない。でも、そう思うのだ。わたしは吃音で、そんなわたしのことを誰かは気持ち悪いと思うかもしれない。また、わたしが統合失調症であることもきっと誰かにとっては気持ちが悪いことなのだろう。
 わたしは自分のことを「気持ち悪い」と言われれば面白くなくて腹が立つ上に傷付く。さらには気持ち悪いと思われたくないものだと願っている。でも、そんなわたしであってもどんなとは具体的には言わないけれど、ある属性を持った人たちのことをどんなに頑張って聖人君子でいようと努力して心がけても気持ち悪いと思ってしまう。その気持ち悪いと思ってしまうわたしの本音を否定して、自分は清くていい人間なんだと思いこませようとしても、実際には気持ち悪いと思っている自分がいるのだからそう振る舞うことは自分に嘘をつくことになる。ここがなかなか難しい。本能的、あるいは生理的、直感的に拒否反応が出ている自分とどう向き合うか。問題はそこなのだろうと思う。よくルッキズムが取り上げられるけれど、果たしてそのルッキズムを批判している人たちが全く人の外見を無視できているかと言えばそんなことは無理でやっぱり美しいものや快いものに人は魅かれるのだと思う。人の見た目から完全に自由になれている人などというのはいないはずだ。容姿が悪いよりはいい方がいいし、不健康であるよりは健康的である方がいいし、内面的なことでは、気質や性格などが攻撃的で乱暴であるよりは穏やかで優しい方がいいし、頭が悪いよりはいい方がいい。
 でも、だからと言ってそれをあからさまに容姿が劣っている人に直接そのことを言ってけなしたり、美男美女をひたすら賞賛してほめたたえるというのはどうかと思う。と言いつつも、この見た目の問題はなかなか難しくて、本能的にこの美しいとかそうではないなどと思ったり感じる自分とそれを露骨に言葉にするのは差別だとする、この間で板挟みになっている構図がある。
 と、まとまらない感じになってきて、今ふと思ったのはもしかしたらそんな美醜なんていうものはもしかしたら存在しなくてすべては等しいのではないか、ということだったりする。バス停で「気持ちが悪い」と言われて、それでもそんなことを言ったその若いヤンキー風の男とその連れの女と同じバスに乗ったわたしは座席の後ろの方に座ってその二人の後ろ姿を眺めていた。腹は立っていた。でも、腹が立ちながらも、後ろから殴りかかったり、どついたりしようなんていう気が起きなかったのはどこかでわたしの中でそういったインドの聖典の思想が自分の血肉になり始めていたからではなかったかと思う。優れているものも劣っているものも、価値があるとされているものもそうではないとされているものも、美しいものも醜いものも、たくさんあるものも稀少なものも、みんな等価。そのシンプルな思想を実践していって、それをやっていくのだとしたら、もう気持ちをかき乱されたり、不安になることもなくなる。なぜならすべては等価なのだから。聖者から見たらこの世界にあるものはきっとみんな等しくて同じ価値なのだろう。でも、だからと言って、わたしはお金を石ころとか土塊みたいにそこらへんに放り出したりなんかはしないで大事にしまっておくから、完全にその思想に生きるというのはできそうもないけれど、方向性として踏まえておくだけでも違うのはたしかだと思う。
 人間を物質というか原料から見れば、その顔も含めた肉体は、タンパク質と脂肪と骨などのミネラルだ。どんなに美しい女性も、どんなに端正なイケメンもそうしたものの塊でしかない。それをわたしたちは見て、美しいとかカッコイイとか、お近づきになりたい、そしてできることなら一夜を共にしたいものだと欲情する。考えてみれば不思議なものだと思う。どうして美女やイケメンには情欲を燃やすのに電信柱や木や机には無反応なのだろう? 全部、物質なのだから同じように、それを見て興奮してもいいものなのに、なぜか生身の人間だけに反応してそれを恋い焦がれて求める。ともかく、電信柱との一夜が最高だったとか言う人なんていない。考えてみえればすごくこれは不思議なこと。
 聖者にとってはどんな美女もきっと単なる肉の塊、つまりは物体にしか見えないのだろうと思う。その物体というか物質に執着して心を乱すというのは必要のないこととして、ものすごくクールにとらえているのだろう。
 なんて言ってもそんな現実離れした話を聞かされてもねえ、というのは分かる。だったらそこまで徹底しなくてもそのこだわりを少し手放してみるのが得策ではないか、と。美女もイケメンも肉の塊だなんて何て痛快でありましょう。そして、その肉の塊に欲情しているこれまた肉の塊であるわたしたち。こう考えると何だかとても気持ちが楽になってくるのはわたしだけだろうか。自分の執着しているものを俯瞰しているというか何というか。
「気持ち悪い」。その言葉をああでもない、こうでもないと考えた今回の記事。ここあたりで終わりたいと思う。長文でありました。最後まで読んでくださりありがとうございました。肉の塊のわたしから肉の塊のあなたへ愛を込めて。ではでは。

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