閑古鳥鳴くに任せて我励む一人の心揺さぶるために

いろいろエッセイ
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 最近、このブログのデザインを変えた。ブログのテーマを変更したのだ。いい感じになっているだろうか? きっと良くなっていてもっと多くの人に読んでもらえる。そんな甘い期待を抱いていた。
 が、アクセス数は増えるどころか減るばかり。何がいけないのだろう、いけなかったのだろう。といろいろ考えてみてもやっぱり思い浮かぶのが、わたしの身辺雑記みたいなものにはみんな興味なんて何もない。わたしが何をしようが芸能人とか有名人でもなければ、あるいは社会的な地位の高い人でもないのだからどうでもいいということ。つまり、自分の無力さを思い知らされるのだ。
 しかも、新しいブログのテーマにしてみたら、記事ごとの最近のアクセス数が表示されるようになったものだから、特に知りたいと思わなくてもそうした情報が目に飛び込んでくる。その結果、わたしが新しい記事を書いてもほとんど読んでもらえていないこの現実が剥き出しになって見えてくるようになった。わたしの記事などあっても無いに等しいもので、こんなわずかな読んでくれる人のために書いているのかと思うと、急に寂しく空しくなってくるのだった。
 そんなわたしは母にふとこのことを話してみた。アクセス数がさっぱりで、新しい記事を書いてもほとんど誰も読んでくれていないこと。そうした胸の内を聞いてもらったのだ。すると、母はわたしにこんなことを言った。「自分のために書いている、でいいんじゃないの?」と。その言葉を聞いた時、はっとさせられるものがあった。
 わたしが文章を書くようになってから何年くらい経つのだろう、と今までを振り返ってみると実験的な段階も含めて結構長いことに気が付く。一番最初は高校生の頃だったかもしれない。いや、たしかに高校生の頃だった。その時を経て、今。旧ブログから現在までの記事数はもう900くらいになる。自分でもよく書いてきたなぁと思う。
 それはともかくとして母がわたしに言ってくれた「自分のために書いている」という言葉は本当に的を射ていると思った。楽しい時、苦しい時、悲しい時、苛立つ時、幸せな時、底をのたうち回っている時、どんな時にもわたしと共に文章はいてくれた。それは神様のように、でもあり、そしてその度にわたしにいろいろと大事なことを教えてくれて気付かせてくれた。今のわたしがわたしとしてやれているのは、この書くことによる気付きが大きいということは疑いようがないことだと思う。もしもわたしが何も書いていなかったら今頃死んでいていなかったのではないかとさえ思う。自分自身を俯瞰して一歩距離を置いて眺めることができずに、自暴自棄となりただ衝動のままに自らに手をかけていた、のかもしれない。そして、死んでしまって今頃は骨になっている。そんな結末だってあったかもしれないのだ。
 と考えるとわたしがたしか中学生くらいの時だったかと思うけれど、我が家の(?)サンタクロースは偉大だなと思う。サンタさんはわたしにその年になぜか日記帳をくれたのだ。それまでのわたしは日記とか書くこととかまったくしたことさえなくて、興味も何もなかった。そんなわたしにサンタさんは一番必要なプレゼントをくれたのだった。わたしが初めて書くことと出会ったそもそものきっかけ。それがある年の12月25日の朝だというのは何とも面白い話ではないかと自分でも思う。だから、「サンタさん、わたしはここまで成長しましたよ」と言いたいくらいだったりする。
 書くこと。それは人を成長させる。その人に気付きを与えて、大切なことが何かということを悟らせてくれる。しかも誰かから一方的に押しつけられるわけでもなく、きわめて自然に自発的に自分の心からわきでてくるものにふれることができる。
 とまぁ、今もこうしてわたしはこの記事を書いているわけだけれど、何というかいい空気がまた巡ってきているように感じる。さらには、今までこのブログのぐだぐだ不調日記を読んでもらえば分かるように、数多くの不調においてもわたしは書くということ、つまりは自分の文章に助けて引き上げてもらっている。「不調になる→書く」ということを繰り返すことによって、未だに不調を根絶することはできていないものの、同じようなパターンの不調になりにくくなってきているし(パソコンとポルノがたいていの不調だと不調日記を書くことを通して分かったから)、不調になる頻度も少なくなってきている。これだけでも書くことの効能には計り知れないものがある。
 今わたしが自分で物事を考えられるようになったのは書くことの恩恵を受けているからで、もしも書くことと無縁のままでここまで来てしまっていたらもっと短気で感情の赴くままに好き放題振る舞う、そんな人になっていたかもしれない。
 たしかにこのブログのアクセス数は少ない。実際わずかなものだ。有名ブログにはもちろんなっていないし、そんな有名ブログの運営者である彼らから見たらわたしのなんてチリかホコリのようなものだろう。でも、たとえ結果が出せていなくて、日々閑古鳥が鳴いていて、さっぱりで、全然てんでなっていなくても、わたしはもう既に果実を得ている。見返りは十分に得ていて、まさに宝でざっくざっくなのだ。わたしが書くことを通して身に付けることができた洞察力や冷静に物事を見て判断する能力や悲観的にばかり考えないで前向きにやっていこうとする力。そうした素晴らしい恩恵というか果実はもう既に得ている。あとはこのブログが繁盛していってくれたら、もっと人気が出て人気ブログとなってくれたら、といった欲望もあることにはあるけれど、ひとまずはこのブログを通してわたし自身がここまで成長できたことを感謝したい。少なくとも、それだけでもブログをやってきた甲斐はあった。十分すぎるほどあった。
 あと、最近何か書くことが前よりも楽しく充実しているような気がするのだけれど、どうしてなのかなぁ。心身共に充実してきたからかなぁ(アシュタンガヨガを始めたことによって頭も冴えてきた?)。などと書きつつ、まぁ、ブログのアクセス数がてんでさっぱりでも自分のためになっているからいいんじゃないの、という月並みでありながらも核心をついている結論にたどり着くわたしなのだ。そして、願わくば、というかこのわたしの日々の気付きを読者の皆様と共有することによって、読者の皆様にとってもなにがしかの発見や喜びや感動がありますことを願いつつ、といった感じなのです。
 というか、一人にでも誰か一人にでもわたしの言葉が刺さって深く感動させることができたらもうそれで良くないですか? わたしの記事がバズらなくても、このブログが有名ブログにならなくても、アクセス数とは無縁でいつも閑古鳥が鳴いていても、たった一人、たった一人を感動させることができた。それだけで地位もお金も名誉も名声も何も手に入れられなくてもいいような気がするのです(あ、でもそれらが要らないわけではないんですけどね。っていい話がこの括弧でぶち壊しだろ)。
 文章の本来の役割はまず自分の思いや考えを誰かに伝えることで、さらにはその文章で誰かを幸せにできたら最高だと思う。だから、別にその文章によってお金とか名誉とか名声とか地位なんかが手に入れられなかったとしても、それらはいわばおまけみたいなものだから本質ではない。というか、それらを狙って文章を書くこと自体、どうかなぁとも思ってしまう。それらは多くの人を幸せにした結果、その与えた功労者に授けられるものなんだから、それを第一としてしてしまうのは何か違うような気がするんだ。
 と最後にいろいろ盛ったけれど、今わたしが思うことはこう。

 閑古鳥鳴くに任せて我励む一人の心揺さぶるために

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