無駄

いろいろエッセイ
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 昨日、精神科の外来へ行ってきた。本当は次の予約が7月頃だったのだけれど、急遽予約を入れて行ってきた。土曜日に、文化祭の帰りにバスを待っていて、一方的に暴言を受けてからというもの、わたしは何だかおかしくなっていた。そのことがあってから、やけにイライラして怒りがわいてくるのだ。スーパーへ行くと、普通に買い物をしている人たちを「この人たち必要ないよね。無駄だよね」と思ってしまうし、何か他の人たちからわたしがクズだと思われているように感じてしまう。そして、頭がすごく冴えている感じで、次から次に自分への否定的な言葉がポンポン、ポンポン思い浮かんでは自己否定をして嫌な気持ちになってしまう。冴えていると言うよりも、キリキリ、カリカリしている感じで、これはこれで苦しい。そして、高等な人間のみが生きているべきで、普通の人やそれ以下の人たちは必要ない、と思えて仕方がなくて、その必要ない人の中には自分もしっかりと含まれている。働きもせず、生産性がほとんどないわたしなど必要ない。そんな衝動的な感覚というか思いのようなものに縛り付けられている。言葉で表現するならこんな感じだろうか。
 自分自身を冷静に突き放して眺めてみるなら、最近、やまゆり園の事件についての本を読んでいたことも影響しているのかもしれないとも思う。でも、それだけではない。それだけだったら土曜日以前からそういった考えが脅迫的に浮かんでいてもおかしくないからだ。
 美しい者、強い者、優れている者、生産性が高い者。そういった者が生きていれば良くてそれ以外は必要ない。それ以外は無駄なんだ。そうした思想になぜかわたしは絡め取られていた。もちろん、その思想は自分自身へもそうではないということで突き付けられてくる。多くの人を排除し、自分をも排除する。だから、何よりも苦しい。
 病院へ行っていつもの主治医の診察を受けた。主治医は言った。「ストレスで統合失調症の症状が出てきたようですね。ひどいことを言われてつらかったですね」。わたしのこういった差別的な考えを聞きながらも主治医はそのことの是非については一切ふれずに、ただ「楽になるようにお薬を調整していきましょうね」と言う。「今の薬をもう3mg増やしてみましょう」となり、また来週も診察を受けることになった。
 そんなこんなで、とてもヨガの道場へ行けるような感じではなかったので、今日はお休みさせてもらった。
 インドなどでは、象が病気になると象使いは森の中へ連れて行くらしい。そうすると、自分の病気を治すために象は、薬草や土などを本能的に選んで体に取り込むらしいのだ。それと同じようにわたしに何かできることはないか、それも自分でできそうなことはないかと自分にとっての薬のようなものを探し始めた。
 今回の場合、バス停での出来事が引き金になっていることはたしかだとしても根本的なところは思考の問題だと感づいていたから、思考を思考で鎮めることにした。というわけで、本をチョイス。以前、買ったまま読んでいなかった脳性麻痺の青い芝の会の人が書いた本を読み始めたのだった。
 読み始めたら気持ちが鎮まってきた。自分がすごく単純であることは認めつつも、やまゆり園の犯人の思想に対峙するには障害当事者の思想を持ち出してくるしかないのだ。この直感は正しかったようで、何よりの証拠は気持ちが落ち着いてきたことだった。昨日もらった追加分の薬もまだ飲んでいないというのに、だ。
 本を読んでいて、一番心に刺さってきたのは「無用」という言葉だった。無用という、役に立たないということ。そもそも、無用とか役に立たないって何なのだろう? 口語的には「使えない」ということだと思う。「お前使えないね」という時の「使えない」。このことを考えているとアーユルヴェーダを思い出す。アーユルヴェーダでは薬にならないものはない、と考える。つまり、すべての物は何かしら役に立つということだ。アーユルヴェーダの聖典を読んでいると、本当にいろいろなものが登場してくる。普段わたしたちが食べたり飲んだりしている物や薬草などの他にも排泄物、うんちや尿などの効果や効能などが紹介されている。
 わたしは今までに重度の身体障害者と接した経験がないから、その介助などのお世話の大変さというものが分からない。しかし、それがとても大変で骨が折れることで、家族にとって、また、社会にとって大きな負担になっているのは事実だと思う。それは大変なこと。すごくすごく大変なこと。けれど、それだけなのかと言えば、それだけではないようにも思う。現実を知らないただの綺麗事を言っていると思われることを承知の上で言うなら、そんな弱い彼らであっても、何もできないようでありながらも、何かができるとか実利的なメリットとか、そういったものとは違う何か言葉では表せない、大切な大切なことを教えてくれているのではないだろうか。
 もしもこの世界からわたしも含めた障害者、病人、老人などを根絶やしにして絶滅させて、効率的で、生産性が高く、有能で、美しくて、清潔で、スマートな人だけからなる世界にしたらどうなるだろう? きっと殺伐として貧しい世界になっているだろうと思うのだけれど、どうだろうか? みんなが優秀で、みんながエリートで、みんなが頭がいい。そうなったら頭の悪い冴えていないおバカなことが何も言えなくなる。以前、テレビで大学教授の齋藤孝さん(東大卒)が「頭がいい人たちの中では冴えていないことを言えない」みたいなことを言っていた。そういう、冴えていない頭の悪いことを言うとスルーされて「今の頭悪いよね」みたいにシラ~っとなってしまうとのこと。インテリの世界というのはそういう感じである種、殺伐としているらしいのだ。
 そう、生産性とか冴えとか合理性、つまりは頭の良さがなすスマートさを追求していくと、非生産的で抜けていて合理的でないバカげているアホらしいことが言えなくなるし、やれなくなる。だから、寛容な感じではなくなるだろうし、自分はもちろん他の人へも鋭い視線が向けられることになる。
 そういった研ぎ澄まされた世界が本当に素晴らしいのかどうかと言えば完璧すぎて息が詰まるだろうなと思う。そういう人たちばかりで構成されている集団というのは、きっと居心地が悪いだろう。頭の悪い人とか劣った人がいなくてイライラしないかもしれないけれど、別の意味でそのあり方に寂しさを覚えるはず。実際、わたしの経験から言っても、無試験の地元の公立中学校の人たちの方が入学試験ありの進学校だった高校の人たちよりも断然優しい人が多かった。中学校は中学校で不良っぽい人がいて、それはそれでまた問題があったけれど、何ていうか誰かが一人でぽつんとしていると「こっちへ来なよ」と言うような心優しい人が少なからずいたものだ。人情がある感じで、頭はあまり良くないのだけれど、あったかい感じがした。
 先日行った母校の文化祭でも後輩の彼らとちょっと話をしてみて、すごくクールだなぁって感じた。何ていうか無駄なことをしないし、無駄なことに時間を使わない。文化部の部屋にしても、分からなくてこっちが質問しているのに、その人は必要最低限のことだけを言うともうスーっとどこかへ行ってしまう。ぐだぐだ来場者と立ち話なんてしない。「どこから来たんですか?」とかこちらに関心を持ってもくれないし、そもそもそんな関心がない。このやり取り、この時間無駄だなと思ったらどんどん切り上げる。出世する人間、将来ビッグになる人間はきっとそのために集中的に自分の時間をそのことに投入するからその道で成功できるのだろう。今すべきことは何か? そのための最短ルートはどれか? そんな感じでやっているわけだから、無目的にブラブラするとかぐだぐだするなんてことはしないだろう。それは無駄だから。したとしても、それは生産性を高めるための休息としてきっと位置づけるはず。
 そういう感じで効率を重視して無駄な物をなくしてそぎ落としていく時、待っているのはみんなが孤独を感じる殺伐とした世界なのだろうとわたしは予想する。だいたい雑談なんて無駄かどうかと言えば無駄なんだ。それなら本を読んだ方がよっぽど知識は得られる。相手のことを気遣って「元気?」とか「調子はどう?」なんてたずねるのも無駄なんだ。ただ、それが雑談をしたり相手の様子をたずねることによってお金がもらえたり、自分にとって何らかのメリットがある場合にだけ無駄ではないということになる。つまり、合理的な態度。まぁ、何て殺伐としているのでありましょう。金にならないことはやらないという感じになってくるわけなんだ。
 無駄なことも意識した途端、無駄ではなくなる。無駄の効用というか無用の用というか、この世界に役に立たないものなどない。それは物においても人においても言えること。一見役に立たないように見えるものを愛おしめるようなそんな人になれたらと思う。このブログも無駄なおしゃべりのようでありながらも誰かの役に立っているのかもな。なんて思いつつ。無用の用で上等。

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