人生はシャワーのようなもの

いろいろエッセイヨガ
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 何かここんところ、自分をちっぽけな存在だなぁって思うようになった。ブログを書いても、SNSで発言しても、どれもさっぱりで反応はほぼないに等しい。まぁ、一般大衆として埋もれておりますな、はいはい。
 この前、ヨガの帰りに駅の階段を降りてくるたくさんの人たちを見て(朝の通勤通学の時間帯だったので)、この中でわたしと同じようにブログをやっている人ってどれくらいいるんだろうなぁとふと思ったんだ。そして、わたしは、きっとほぼ過半数の人はやっていないのだろう、という結論に落ち着いた。
 ブログをやっていない。それは1年365日、毎日アクセス数がゼロだということを意味する。そう考えれば、わたしのブログだってアクセス数はすずめの涙だとしてもゼロではないから、彼らよりは勝っていることになる。でも、勝っているとして、それが何なのと言われてしまうともうわたしは何も言葉を返すことができない。結局自己満足なのかなぁって寂しい気持ちになり始める。
 人生って何なんでしょう? 何のためにあるんでしょう? その答えが欲しくて今までいろいろなことをやってきたような気がする。要するに、何か詰まるところ絶対こうだっていうやつがほしいんだろうなぁと。自分が人生を賭けるに値するだけの価値があって、絶対に裏切られないそんなものが。
 でも、そんなものはないのかもしれない。結局、すべては自己満足でしかなくて、いかに自分が気持ち良さや心地良さや充足感を得られるか。ただそれだけなのかもしれない。だとしたら、脳味噌に電極でも差し込んで快感を得る電流でも流してもらえばいいというだけのことになる。あるいは、幻であることは承知した上で心地良い幻想の世界を高度な機械を使って見させてもらえばいい。その世界では自分の望む世界が展開されて、美女たちと戯れることを望むならそれができ、美味しいものも際限なく食べ続けることができる。とは言ってみたものの、そんな甘やかされた世界にだけいていいのか、という疑問はどうしても残る。いや、そんなのは人間をダメにしてしまうだけで、もっとやりたくないことを率先してやって鍛錬すべきだ、と努力が好きな人は言うことだろう。でも、それは何のために? 何のために努力して刻苦するわけですか? 人格的な成長? 人間的な成長? 苦しいことを通り抜けた先にある快感のために? だとしたらさきの脳に電流を流して幻を見させる機械を使って、苦しい修行のようなことをやって快感を得る、みたいなことをやればいいだけのことであって、何もそれを人にも要求する必要はない。
 こう考えてくると、この現実というものが何のためにあるのかというのが分からなくなってくる。キリスト教の天国の思想を持ち出すのであれば、結局人間はみんな天国へ行くのだからと死に急ぐことになりかねない。天国、フワーっの危険な思想がここにはある。
 現実。現実は何のためにあるのか。脳に電極差し込んで美しく心地良い幻を見ているのとひたすら平凡なこの現実を生きるのとどちらが望ましいのだろうか。それは言うまでもなく、つまらないかもしれないけれど平凡な現実の方だよ、と良識のある人ならきっと答える。しかし、この現実でさえも幻ではないという保証はどこにあるのか。誰が保証してくれるのだろう。
 なんて、フワフワ、フワフワしたこと言ってんじゃねえよ。目を覚ませよ。これが現実なんだよ。誰かがわたしの胸ぐらをつかんで揺さぶって言う。「でも、そう言うあなたはそもそも実在しているの?」なんて聞いたらその熱い人はわたしを殴って「いいかげん目を覚ませよ」と言うかもしれない。
 すべてが幻だとしたらその幻の中で何かを成し遂げても、お金を得ても、何を得てもむなしいよね、という話なのだ。それはテレビゲームの中で億万長者になったり、モテモテになったりしてもむなしいことと同じようなもので、すべては幻なのだからその中でなすことも幻でしかない。
 ここまで読んでくださった方はきっとやる気がなくなってきたことだろう。わたしも何か無気力な感じになってきた。でも、矛盾するようだけれど、おそらくこの現実だと思っている世界は存在するのだろう。って今更言っても遅いよ、とのお叱りは覚悟の上でだけど、第三の道として「分からない」という姿勢もあるんじゃないかという気がしてきた。たしかにこの世界は、この現実だと思っている世界は幻なのかもしれない。でも、同時にこれはれっきとした現実であって実際には存在しているのかもしれない。「かもしれない」と言うしかないのは、やはりこの世界があるにしろないにしろ、その根拠とするしかないのがわたしたちの知覚だからだ。つまり、五感、もっと言えば六感。だから、とても心許ない。頼りない。わたしたちがこの知覚に日々欺かれ続けていて、ありもしないものを見せられているだけという可能性は十分にある。でも、しっかりとたしかにあるものを見ている可能性だって同時にある。つまり、分からない。現代の科学をもってしてもこの世界の多くのことが分からないように、世界というものは謎に包まれている。そう、果たして世界中の海にどれだけの種類の魚がいるのか、とか、どれだけの生物の種が存在しているのか(ちと違うか)、といったことが分からないように。わたしたちはこの世界を分かっているつもりになってしまっているけれど、実はそれは氷山の一角のほんの見えるだけの部分しか見ていないのであって、ほとんど何も分かっていないし、見ることができていない、のかもしれない。
 だから、分からない以上、とりあえず生きていくでいいんじゃないかって思うんだ。わたしはまだ真理をつかめていないし、この世界について何かを確信できているわけでもない。でも、とりあえずやっていきましょう。この世界があるのないのか分からないけれど、あるような気がするから。つまり、曖昧さを生きるというあり方をわたしは言いたくて、曖昧だからこそ確信を持たないで生きるということなんだ。もちろん、確信が持てる人は持っていてくれればいいし、何もわたしはそれを否定はしない。ただわたしは少なくとも現段階では確信が持てていない。だから、とりあえず生きていけたらというあり方を取ろうと思っている、という話だと理解してほしい。
 とりあえずヨガをやりたいからヨガをやって、とりあえず読書をしたいから読書をして、とりあえず書きたいから書く。何もすべてのことにおいて確信を得ている必要なんてないんだ。そして、そのとりあえずやったことが心地良ければそれでいいし、何かあんまり楽しくないなと思えばまた別のことをやればいい。もしかしたらわたしのヨガの師匠がヨガをシャワーにたとえたように、人生というものもシャワーみたいなものなのかもしれないなって今ふと思ったりもする。その瞬間はたしかにお湯が流れているけれど、それはもう流れていってしまっていて後には何も残らない。でも、シャワーを浴びた後に「気持ちよかったな。さっぱりしたな」と思う。後悔することはない。後悔することなくそう思えるなら何もシャワーを浴びたことによって高い境地に到達できなかったとしてもそんなことは何ら問題ではない。それから、シャワーのお湯は人生の時間のようなものでザーっと流れておしまいでもう戻ってはこない。でも、それならそれでいい。気持ちのいいシャワー(人生)だったのだから。
 だから、とりあえずシャワーを浴びる。つまりは、とりあえず人生を生きていくでいいのだ。何もそこから真理を掴み取ろうなんてしなくても(掴み取れるにこしたことはないけれど)、とりあえず気持ちよく爽快でいられればいい。
 ブログにしてもヨガにしてもそこから大きな収穫を得よう、やるからにはビッグな大物を釣り上げようなんて考えないで心地良くやっていけたらと思う。そうやってやっていった先で大きな収穫や大物を得られるのかもしれないし、やはり得られないで終わるのかもしれない。でも、いいじゃないの。とりあえずそれをやっている時が充実していて、シャワーと同じようにやり終わってから後悔するなんてことはないんだから。そんなこんなでぼちぼちやっていきましょう。シャワーを浴びるように生きていく、とね。

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