「永遠の安らぎ」という言葉がわたしに刺さって

いろいろエッセイヨガ
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 わたしは何を求めていたのだろう? そして、何を求めているのだろう? ともかく、そんなこんなでやっているわたしであります。
 今日、インド哲学の本を読んでいたら、「永遠の安らぎ」っていうワードが出てきて、その言葉に目が釘付けになってしまった。単に安らぎではなくて、永遠の安らぎ。永遠の安らぎかぁ。永遠の安らぎって言うと、永遠という言葉からわたしは天国を連想してしまう。まぁ、わたしはキリスト教徒ですからそれは至極当たり前のこと。キリスト教徒にとっては天国で永遠の安らぎにつけるからそれまではこの世の荒波にもまれていましょう、みたいなところなんだろうけれど、わたしはこの「永遠の安らぎ」というワードにグッとくるんだ。
 永遠の安らぎは言い換えるなら、「平安」とも言えるかもしれない。平安。この言葉もわたしは好き。あれも好きでこれも好き、なんんてここまで綴ってきたわたしではありますけれど、このブログの記事を書くのって平安とか永遠の安らぎに続いていく道なのでしょうか? 何かちょっと違うような気がしてきているのだけれど、これもご愛嬌?
 というか、そもそもインドの聖者がブログをやっていて、そのアクセス数に一喜一憂してなんてやっているのだろうか? おそらくやってはいない。そんなことをしている暇があったら瞑想をして静かにしていると思うけどな。
 こうして頭を働かせて文字をチャカチャカ打っている今のわたし。これは平安につながっているのか、と考え始めるととたんにスランプに陥りそうだ。
 と、何か急に疲れてきた。何でだろう? 今日のお昼は、おかゆにじゃがいもと玉ねぎとにんじんの煮物に、と下痢対応の食事でありました。その煮物に入っていたみりんが疲れの原因なのか、それともおかゆ自体が、それも白米の白いおかゆだから、それが血糖値を乱高下させて、ってな具合で疲れっぽくなってきているのか。詳細は不明だけれど、とにかく疲れてきた。今日はヨガだってやっていないのに、この疲れ。何かだるいまではいかないんだけれど、それでも疲労が来始めておりますみたいな、そんな疲れ。
 でも、今日の食後のうんちはまさに理想的なバナナうんちで本当に嬉しかった。写真に撮っておけばよかったってくらいの模範的なやつだった。
 って、わたし何言ってる? 話が脱線してますけど? 全然、永遠の安らぎについて語れてませんけど? いかんいかん。そうだった、そうだった。永遠の安らぎについて語るんだったね。永遠の安らぎ。
 わたしが真っ先に思い浮かぶのが、アシュタンガヨガの練習を朝に1時間半くらいやって、その時に最後に寝て休んで休憩をするのだけれど、その時の忘我に近い状態が永遠に続くのが永遠の安らぎなのかなぁっていう気がする。もしかしたら永遠の安らぎというのはわたし自身が止滅することを意味するんじゃないか。死滅じゃなくて止滅ね。死ぬわけじゃあないよ。心が止まって滅びる。その状態のこと。あるいは、自分自身の意識さえもスーッと平らにお空の彼方に行くような感じを想像したりもする。ということは永遠の安らぎって死ぬことなんですか? 死んだ後の話なんですか? いやいや、それを言っちゃあお終いでしょう? 死ななければ悟れないとしたらそれって酷だからさ、本当。
 と、ああでもない、こうでもないと永遠の安らぎについて詮索しているわたしなのだけれど、その奥義はどうやらウパニシャッドと呼ばれる書物に書かれているらしい、とのタレコミ情報を本で目にした(タレコミってそれはちと違うだろ)。そのウパニシャッドを読んで、そこからさらにそれを実践すればいけるんじゃないか、ってな話なんだけれど、そもそもウパニシャッドってすごく神聖なものなんですよ。天啓書とも呼ばれるもので聖者が啓示を受けたかのような書物で、秘められたものでもあったんだ。だから、今ではウパニシャッドっていうとアマゾンでも本屋さんでも買えるけれど、本来はそうした「さぁ皆さん、寄ってらっしゃい。見てらっしゃい。ウパニシャッドの奥義ですよ」なんてものじゃないんだ。師匠から弟子へ親から子へと綿々と受け継がれてきたそれはそれは有り難いものであって、畏れ多くも神聖なものであって、何もインド人が世界中の人々に広めようとしたとか、そういうものではなかったらしいんだ。それが今ではお金を出せば自国語に訳されているウパニシャッドが読める。なんて素晴らしい時代なのでありましょう。が、本来の性質から考えて、寝転んでぼんち揚げでも食べながら読むような書物ではない。しっかりと心も気持ちも整えて自分がふさわしい状態になった時に読むことが許されるようなそんな神聖な神様からの啓示の書物。それがウパニシャッド、というわけなんだ。
 今日読んでいた本のウパニシャッドの箇所、まさに今のわたしのために書かれているような気がしてならなかった。そう、おそらくこのウパニシャッドにわたしの求めているものがあり、真理がきっとある。まぁ、そうは言ってもキリスト教徒がウパニシャッドで解脱を目指すなんておこがましいにも程がある、と批判したい人もいることだろう。でも、わたしは求めているのだから、それも結構真剣な感じなのだから、これはこれでいいと思うのだ。ダメ? って何であなたの許可を得なければいけないの?(ってわたし、ちょっとケンカ売ってるな。平和に行きましょう、平和に。スマンです)
 と、ともかく永遠の安らぎというワードが本当に刺さって、その本のそこの部分を赤丸で何重にも囲ったくらいだから、この道をとりあえず進んで行くのみ。まぁ、分からないところがあったら、わたしには今通っているヨガの道場の先生もいるのだから質問すればいい。そうしたらいつもの調子で的確に答えてくれることでありましょう。だから、一人ではないわけだし、師匠もいるからおそらくは大きな落とし穴に落ちることもない、でしょう。
 と言いながらも今日もブログのアクセス数が気になる~♪ ってダメだろ。全然、全然、箸にも棒にもかからないわたしなのだけれど、ぼちぼちやっていきたいと思う次第なのです。
 目下の目標。今読んでいるインド哲学の本を読了する!! うんうん、いいよ。いいよ、それでいい。少なくとも目標というか目的地にはそれをやれば近付いていくからさ。
 こんな軽薄な尻軽兄ちゃんが悟れるのか。いやいや、もっと真剣に求めなさいよ。求め方が足りないのよ。だから、箸にも棒にもかからない。うわ~!! それを言うなぁぁ!!! インドの山奥にでも行って修行しなさいよ。それも言うなぁ!! これでも結構気にしてますから。なんて現代文明の粋をこらして作られた入力専用端末のPomeraのキーを叩きながらだから説得力がないのは百も承知。本気を示すならブログの記事なんて書いてないでインドに行きなさい、インドに。だから、それを言うなって!!
 と、とりあえずわたしの方向性が見えましたのでインドには行かずにまずはインド哲学の本を(もちろん日本語のやつをね)読みたいと思います。読んでいきたいと思います。日本にいてもやれることはある。十分生活の拠点を変えなくてもそれなりにやれることはある。まずは入門書から。そして、だんだん難しい本へと深堀りしていく。わたしはインド哲学の入門書さえろくに読めていない。なかなか進まないわけなんだけれど、まぁ、やっていきまっしょい。自らの思うままに。信じるままに。GO!!

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