ほどほど

ヨガ
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 ヨガは執着を手放すための方法だ。必要なものでない人や物、ならびに考え方などへの執着を手放そうとするいわば練習だ。そんな風にわたしは思っている。
 けれど、そのヨガに執着する時、それってどうなんだろう、というまた難しい問いが生まれてきて、執着を手放そうとすることに執着するという何とも不思議な話が浮上してくる。
 ヨガをしなければならない、というのもまた変な話だ。だって、「ねば」とか「べき」とはヨガは無縁のはずなのだから。自由な心、何ものにも束縛されない自由な心であるはずなのに、それをすることに束縛されているのだから何とも滑稽な話ではないか。
 わたし自身、もっとヨガを深めていきたいという思いが強くある。しかし、それすらも執着ではないか、とつっこまれると答えるのに窮する。困ってしまうのだ。
 もしもだけれど、人間が完全に執着を手放したらどうなるかと想像してみると死ぬと思う。それも生きることへの執着、食べることへの執着すら手放して、結果、餓死するのだと思う。そこまでやるのはやりすぎだと思いつつも、本当の意味で執着を手放すというのはそういうことだと思うのだ。心穏やかにスーっと餓死して死んでいく、なんてことが可能なのかどうかは分からないものの(わたしは死ぬレベルまで飢えた経験がないので)、それでも執着をどこまでも手放していくとこの境地へとたどり着くと思うんだ。だから、いわば仙人とか聖人などと呼ばれる人たちも、食欲とか生存欲求などを捨て去ることはできなかったのだから、その点からしてみるとまだまだなのかもしれない。
 で、わたしはどうなりたいんだ? どんな境地を目指しているんだ? 何も食物を摂らなくなっていき餓死する。そこまでやりたいのか? いやいや、その世界も分からなくもないけれど、そこまで高い境地を目指したいとは思わない。
 わたしが目指す境地。それは平安なんだ。完全に執着を手放せなくてもいいから、平安の、つまりは心安らかな状態になりたい。というか、わたしはもう、もしかしたらそのレベルくらいにはたどり着いているのかもしれないと思ったりもする。ヨガをやっている時、瞑想している時に頭がスーっと透き通ってくる。それでいいなら、もうこれ以上求めていかなくてもいいんじゃないの? サッカーをやる人がみんながみんな、プロのレベルまでいけなくても妥協(というのは語弊があるな)して、それでも楽しんでいるように、今わたしが行っているヨガ教室の70近いおばちゃんたちがリフレッシュできればいいと思って教室でしかヨガをやらず、ましてやヨガを極めようなどとは夢にも思っていないように、そもそも別にこうあらねばならない、というものはないのだ。自分がどこで満足するか、どこまで求めていくか、ただそれだけのことなんだ。
 執着をどれくらいまで手放せたら満足できるか、というのは人それぞれによって違う。人によっては手放すどころかどこまでも自分の求めるものに執着し続ける人生を送る場合がある。ひたすら欲しいものを貪欲にどこまでもどこまでも求め続ける。そして、渇き続けたまま、「足りない」と言いながら死んでいく。また、ある人は贅沢な暮らしという執着は手放そうと思い、それを実践する。けれど、それ以外のものは、贅沢ではない欲しいものは手に入れようとし続ける。かと思えば、別のまたある人はほどほどに生きようとする。ほどほどに執着を手放し、それで満足する。
 これらを数字に置き換えてみれば全部で執着が100あるとしたら、そのうちのいくつを手放すか、そしてどこまで手放したら満ち足りた気持ちになるのか、ということなのだと思う。もちろんある人の執着が100だとして、そのうちの100、つまり全部を手放したら先に書いたように生きていることはできない。生きることをも手放してしまえば餓死する。だから、これは無理だ。だったら、この執着を限りなくゼロに近づけることを考えれば、より執着が少ないということになる。しかし、この手放す作業それ自体に執着してしまうのだとしたら、また新しい執着が増えてしまうのだから、いつまで経っても執着は手放すことができない。
 執着を手放したいという思いさえも手放すという境地。こうなるともう社会生活を送ることは当然ながら無理だ。あまりに無欲すぎてこの社会をうまくやっていくことができない。だから、どこかで妥協しなければならない。
 と考えていたら、そもそも執着があるのは良くないことなのかという問いにぶつかった。あぁ、そうか。執着ってなさすぎてもダメだし、ありすぎてもダメなんだ。もしかしたら執着というものはほどほどにあって、ほどほどにないのがいいんじゃないかという気がしてきた。熱すぎてもダメだし、冷たすぎてもダメ。アルカリが強すぎても危険だし、なさすぎてもそれはアルカリではなくなって消滅してしまう。
 だから、わたしたちが自由になっていくためにヨガをやるのだとしたら、自分が自由になっていきさえすればいいのだから仙人になるところまでやる必要はそもそもなかったんだ。ほどほどに欲望があって、ほどほどにそうした欲望を手放せている。まぁ、普通の人でいい。別に何が何でも聖人とか仙人になろうとしなくても、ほどほどでいい。なんて月並みなことを言うようでは進歩がない、と熱心にヨガの道を求めている人からは怒られてしまうかもしれないけれど、ここまで両極端なケースを見てきてわたしはほどほどでいいんじゃないかという、これまたいい加減な煮え切らない結論に到達したわけだ。
 でも、自分はそうではなくて悟りたいんだ、とかどうしても仙人になりたいんだ、ということなら目指すのは自由ではある。けれども、本当に悟った人は植物さえも殺せなくなるのではないかとわたしは想像する。生きとし生けるもの、その命を自分が生きながらえるために奪うことについて誰よりも自覚的になるはずだ。だとしたら殺せなくなる。よって餓死することになる。わたしには悟った人や仙人や聖人をジャッジする資格がないし、彼らのことはよく知らないのだけれど(実際にそういう人と会ったことさえないので)、彼らだって植物を殺して生きながらえていたのだから中途半端なのだ。不徹底なのであり、本当の意味で清くはないのだ。
 だからまぁ、ほどほどに、でもどちらかと言えば、執着が少ないほうかもしれないくらいでいいと思うのだ。
 執着を手放す。それを、まぁ手放しすぎない程度にほどほどに手放す。生きやすくなる程度に手放す。結局わたしも実益志向みたいな考えと結局同じになってしまったけれど、ここまで書いてきて本当思うのだ。ほどほどで、でもちょっと少な目くらいの執着で、と。
 以上、こんなことをヨガの先生との会話を通して触発されて考えた次第。いろいろ極端なことをやってみるとほどほどがいい、っていう結論にたどり着くのかもしれないな。

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