でこぼこ

いろいろエッセイ
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 今朝は夜中の2時頃に起きた。で、今は朝の7時半。いつもよりも4~5時間早いスタートで始まった今日という日。
 が、わたしはこともあろうか、またしても佐藤優さんと池上彰さんの本を読みそれに感化されてしまったのだ。その結果、3時頃から5時頃まで新聞を読んでいた。読んでいなくてたまっていた新聞を2時間もかけて3日分も読んだわたし。結論。いい時間じゃなかったな。
 って、いい時間じゃなかったんかい!! もう予想されるツッコミはだいたい想定しているけれど、わたしはまたしても知識偏重主義に毒されてしまった。結局おんなじことを繰り返している。進歩もなく。性懲りもなく。わたしが4月12日に書いた「必要なもの」という記事をぼんやりと思い出して、Pomera内で「必要」というワードで検索してみてその記事を見つけた。で、読んでみてまた同じことしとる~と進歩がないことに気付いたのだ。でも、そのわたしらしいあり方というものがどういうものなのか思い直すことができて有意義なわたしの過去記事だった。良かったらぜひその記事まだの人は読んでみて。いいこと書いてあるから(って自分で言っちゃうところが謙虚じゃないんだな、これが)。
 わたしは何からできているのだろうと考えると、見たり、聞いたり、考えたり、あるいは食べたり、ともかく経験したことからできている。しかし、見落としがちなのはそうした経験したことだけではなくて、逆に経験しなかったことによってもできているのだ。わたしはヨガをやります。瞑想もします。読書ではこんな本を読んできました、ということと並行してわたしはサーフィンをやらなければ、登山もほとんどしたことがなくて、読書ではこういった本は読んできておりません、といったことがある。これが結構大事なんじゃないかって思うんだ。なぜなら、それが、その不完全で未完成な人間がわたしであり、あなたであり、はたまた誰かであるからだ。もしも人間が永遠に生きることができて、しかも全能ですべてのことができて知っているのだとしたらもうそこに個性とか性格とかないよね。そこにはただ完全で無個性な、それゆえに全く同じ人間がいるだけ。
 それって全然面白くない。みんな完璧で完全無欠でそれゆえに同じになってしまっているから。でも、現実のこの世界に住んでいる人たちはみんな違う。性格も違えば、育った環境も違うし、いろいろな能力も違うし、好みも、得意不得手なことも違う。そんなでこぼこした凹凸のような人間の雑多な集まりだから面白いんだ。差異がまったくなかったら、そもそも会話だって成立しないし、面白くないし、会話をしようとさえもしないことだろう。
 だからいいんだ。完璧でなくて。そして、完全無欠になろうとしなくても。そんなの無理なんだから。佐藤さんだって池上さんだってものすごくたくさん勉強していて、知識量は普通の人とは比べ物にはならないということはみんな分かっている。だからこそ、本の世界だったり、知識の世界だったりで活躍しているんだ。でも、お二人だって知らないことは山のようにある。博覧強記の佐藤さんだって知らないことは山ほどある。細かいことを知っているかとつつけば、きっと知らないことは多いだろう。たとえば、現在のAKB48グループに所属しているアイドルの全員の名前を言えとか言われても答えられないだろう。日本にあるマイナーな山についてその山の歴史などをきかれてもこれもおそらく無理だ。有名どころは知っていてもわたしの近所にあるE山はきっと知らないことだろう。また、ウルトラマンシリーズに過去に登場してきた怪獣の名前をすべて言いなさい、とか無理難題なマニアックな知識を問うことはいくらでもできる。
 そもそも、教養主義というか、そういったことを重視する立場に対してわたしが疑問に思うのは、そういったアカデミックなことを知っていることの方がサブカルチャーなどの雑学的なことを知っているよりも偉いのか、ということだ。わたしはそのことに優劣はないと思う。もちろん、生きていくために必要不可欠な知識であれば知っていれば偉いだろうけれど(生活、衣食住に必要な知識)、そうでもない知識についてはまぁ、分野が違うけれどもいろいろあるよね、という感じにしか思えないのだ。ライプニッツの哲学について詳しいのと、ウルトラマンAに登場してくる超獣(怪獣を超えているから超獣という)について詳しいのとでは特に優劣はないとわたしには思えてならない。
 そういうわけでライプニッツの哲学のこの概念を知らないなんてダメな奴だと言われたら、逆にウルトラマンAの超獣バキシムを知らないなんて信じられない、と返せばいい。
 完全という志向。完全になりたい、それに近付きたいという憧れ。しかし、そんなものはそもそも無理。だったら自分が好きな知りたいことで頭の中をいっぱいにすればいいんじゃないか。もちろん、人に迷惑をかける方法に詳しくなって実際にそれを実行するというのは問題でダメだけれど、人様や自分自身に迷惑をかけないことであれば(日本の法律に従うのであれば)、自分らしさをどんどん追求していってどんどんユニークな存在になっていっていいのだ。学校の勉強は義務教育くらいまでしっかりとできれば、特に困ることもないからまぁいいんじゃないの、というわけだ(結構わたしって無責任なこと言いますけどこれはわたしの実感)。
 何もクイズ王のようにいろんなことを知っている物知りでなくてもいいなら知識が偏っていてもいいじゃないの。みんな多かれ少なかれ知識、頭にインプットされているものには偏りがあるし、どれをインプットするのが正解でどれが不正解なんていうものはないんだから。もちろん何かの専門家だったらその分野のことは必要最低限は知っておかなければまずいけれど、専門家だって最低ラインはクリアーしているだけの存在で、あとは各自それぞれの独自性だったり、得意分野だったりがあるのだ。だから画一的でなくていい。むしろみんなと同じものや同じことしか知らないのではつまらないよ。というよりも、そんなことを言う前にわたしたちは世界に1人しかいないオリジナルでユニークな存在。そもそもユニークだし、そのユニークさゆえにさらにユニークになっていき、それが歳を重ねれば重ねるほど際だっていく。だから心配しなくて大丈夫なんだ。
 これを知らないとみんなに遅れてしまう。これを知っていないと教養がないとみなされてしまう。みんなこれくらいは知っているからわたしも。なんて言うのは幻想なんじゃないかってわたしは思う。絶対に何が何でも必要なことってほとんどない。それらはもうすでに義務教育で勉強してしまっている。だったらあとはそれをオリジナリティあふれる方向へと羽ばたかせていくことを考えた方がいい。
 一人でどんなに頑張っても毎日シャカリキになってカリカリ勉強して知識を詰め込んでもできることはたかが知れている。そこまでやっても一人の人間には限界というものがある。完全になりたい、完成したい、と人間は思ってしまう。これは全能への憧れと言ってもいいだろう。でも、どんなに逆立ちしても全能になれない。逆に全能になるということは個性を失うということ。個性を超越してしまっているということ。
 そういう感じなので、わたしは手当たり次第に知識を貪ることはしないし、しようとは思えない。それは自分の中に必要としていない雑多ないわば雑草を生やしてしまうことだと思うから。と言うのは言い過ぎだろうか。まぁ、わたしの頭の中はどれも中途半端で雑草みたいなものですけどね(って自己評価低っ!!)。要するに、この文章で言いたかったのは、人間は有限な存在なのだから好きなことをやればいいんじゃないの、ってこと。まわりの目とか世間の常識とかそんなこと気にしないでさ、ってことを言いたかったんだ。ってグダグダまたしてもまとまりのない文章を書いてしまった。まぁ、いいや。これがわたしにとっての精一杯なのだ(起きた時間が夜中だから頭も回らないのよ)。
 本当に自分がやりたいこと、必要なことに多くの時間を割いていくことは人生を洗練させる。根拠のない教養主義から解き放たれた時、人は自由になれる。人生はやりたくないことを我慢してやるためではなくて、やりたいことを喜びながらやるためにある。そんな風にわたしは思う。これから先、わたしは教養も何もない偏った凹凸の激しい人になっていくんだろうな。でも、その方がきっと面白い。自分らしくあろうとして結果そうなったらそれが自分らしいってことだから、まぁ良しとしようじゃないの。逆に物知りだけれど個性がなくて面白味のない人よりも断然いいと思うよ。わたしは凹凸のある人間を目指したいと思います。あなたもでこぼこした人になってくださいませ。楽しいと思うよ、きっと。

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