幸せは気付いていくもの

いろいろエッセイ
この記事は約3分で読めます。

 昨日、お金の本を読んでいた。それによると、経済的自由(働かなくてもゆとりのある生活ができる状態)を手に入れるためには、まず仕事をして生活を安定させて、さらには副業なんかもやってみて、それで生み出されたお金を投資に回していく。そうするのが辛い仕事にがんじがらめの生活から抜け出す方法だ。そんなことが書いてあった。要するに、まとまった大きな財産を作っていって、それを元手にしてさらに儲けて働くかどうかを選べる暮らしを手に入れる、ということ。
 これを読んだわたしは、生粋の素直っ子なので感化されてしまい、どうしたら収入を得られるだろうか。そして、ステップアップしていけるだろうか。そんなことで頭がいっぱいになり、今朝もそのことで頭が持ちきりでオイルマッサージもしなければ、ヨガもさぼってしまった。もともと、と言うか同時にいろいろなことを考えられないわたし。お金を得ることばかり考え、日常的なことに集中できない。
 で、それを受けて自分の暮らしについてもお金的な思考で考え始めた。まず、お料理。わたしは報酬を得ずに料理を作ってきた。それがとても何だかただ働きのようでいたたまれなくなってきた。そうだ、今度から母から1回料理するたびごとに1000円くらいもらおう。自分の貴重な時間を使っているのだから、それくらいの対価を要求するのは当たり前のことだ。そう考えた。それから、教会の集会に参加するのももうやめよう。特にフリートークをする集会なんてただの時間の無駄遣いでしかない。その時間があるならアフィリエイトの商品紹介の記事でも書いていた方が断然いい。
 こんな調子で世の中のすべての人、物、仕事などありとあらゆるものがお金に見えてきた。すべてお金という数字に換算されて目の前に現れてくる。まるでそれはテレビの某鑑定番組で「オープン ザ プライス!!」と言う掛け声とともに1、10、100、千、万、十万とその価値が数字で表現されてくるかのようだ。
 でも、そう考えていたらとたんに気持ちがギスギスときしんできた。何だか気分が悪い。結局、世の中、金なのかよ。
 次の瞬間、いたたまれなくなったわたしは家の外の小さな庭へと朝の空気を吸いに出てみた。上を見上げると青空がすーっと透き通っている。最近プランターに植えたばかりのパクチーからは新しくて美しいみずみずしい葉っぱが出始めている。キャベツも健在で春になりモンシロチョウたちがやってくるのを今か今かと待っている。
 そうして思った。もうわたしは幸せを手に入れているんじゃないか。もうすでに幸せなんじゃないか。ただ、自分にはあれが足りない、これが足りない。もっともっといい暮らしがしたいと欲望を募らせていただけで、もうすでに幸せはここにあった。最低限の生活だけれど、生活は送れている。生活する家だってちゃんとある。小さいけれど庭だってあるし、何よりも一緒に母と楽しく暮らせている。わたしは何を欲張ろうとしていたのだろう。
 自分が持っているもの、あるものに目を向けるとそれはものすごく豊かで素晴らしく、それらがわたしを満たしてくれている。「そんなこと言ってるから生活レベルが上がらないんだよ」。言いたい人には言わせておけばいい。わたしにはわたしなりの慎ましいけれども満ち足りた生き方がある。とは言えども、お金はないよりはあった方がいいからこれから何かお金が必要なやりたいことができた時には積極的に稼ごうともするかもしれないけれど。でも、今は、今あるこの幸せを味わっていきたいと思う。
 お空とパクチーとキャベツがわたしに気付きを与えてくれて、心の渇きをも癒してくれた。そして、それらはすべて神様経由。感謝したい。
 足りない、足りない。もっと、もっと、ではなくて今ある幸せに気付く。気付いていく。それこそが幸せなんだろうな。幸せは勝ち取るものではなくて気付くもの。気付いたその瞬間にお金があるとかないとか、そんなこととは関係なしに平安が訪れるのだと思う。今与えられている恵みに気付くことができるかどうか。そういうことなんじゃないかなぁ。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました