遺跡を見に行って思ったことあれこれ

いろいろエッセイ
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 お散歩、お散歩ということで歩いていたわたしは近くにあった遺跡を見に出掛けた。何でもその遺跡は奈良・平安時代のものらしく、それを見ていたら時の流れという容赦のないものをまじまじと感じて少し気が遠くなってしまった。
 今は令和の2023年の11月。それからさかのぼること1300年余り。その頃にも当たり前だけれど、人々がいてこの地に暮らしていた。格好も装束も全然今とは違うだろうけれど、生身の人間がいた。食べて、寝て、排泄して、そのように暮らしていた人々がいた。
 その奈良・平安時代の頃に、わたしのご先祖様は何をしていたのだろう? わたしの父方の故郷は千葉で、母方は静岡。一体彼らは何をしていたのだろう? いや、わたしが前世としてその頃もわたしはいたのだろうか? いやいや、キリスト教的にはわたしの生涯は今の肉体を取っているこの人生だけで、前世なんてないない、ってことだけれど、もしかしたらわたしの意識は奈良・平安時代の頃にもしっかりとあったのかもしれない。いや、もしかしたらわたしは犬だった? で、偉いお役人さんに飼われていた? いや、やっぱり前世はモンシロチョウでひらひらと飛んでいた? なんてことを想像力をたくましくしてあれこれ想像してみるものの、一向に正確なところは分からないし、ただただ、ああだったのかなぁ、こうだったのかなぁと思うしかない。
 時というものは本当に容赦のないものだとつくづく思う。100年後にはわたしはもう死んでいるし、もしかしたらわたしの子孫も代替わりしていることだろう(子作りしたらの話ですけど)。時って本当すべてを破壊して虚無にするよね。本当、情け容赦なくて誰も時の流れというものには逆らえない。どんなにお金をたくさん持っていても、たとえ100兆円あろうともそれ以上あろうとも、時というものに逆らうことはできない。だから、せいぜいできるのはアンチエイジングだったり先進医療的なことくらいで、不老不死なんてどんなに頑張っても無理だし、そういうわけで気休め程度に寿命を延ばすことくらいしかできない。
 まさに国破れて山河あり、みたいな境地だなぁって思った。奈良・平安時代に生きていた人たちは、令和の現代には生きていないし、みんなとっくの昔に死んで生き絶えている。だからこそ、だからこそ、この人生を悔いのないように過ごしたいなって思う。
 考えてみると、人はどこから来てどこへ行くのかって謎だなぁって思ったりもする。両親の精子と卵子が受精して、そしてそれが母親の体の中で育まれて今のわたしがあるということは知識としては了解している。でも、どこまでもどこまでも遡っていくと、わたしってどこから来たんだろうって分からないんだよなぁ。精子が作られるためには亜鉛が必要とされるからって、わたしは亜鉛から今の形にまでなったっていうわけではなさそうだし、タンパク質とかミネラルから生まれたんだよ、っていうのもちょっと違う。どこまでもどこまでも遡っていくとわたしって何、みたいなことにもなる。わたしってどこから来たの? こればっかりは謎だ。そして、どこへ行くのかというのも大いなる謎だ。一応というかわたしはクリスチャンだから公式の見解では天国へ行くということになっているのだけれど、今、生きている人で死んで天国へ行ってきたなんていう人はいない(まぁ、臨死体験とかそういったものはあるみたいだけど)。だから、すべて未体験の未知の領域でこればっかりは死んでみないことには分からない。と言いつつも、もしかしたらこの現世での記憶が消えて来世でまた輪廻して生まれ変わるかもしれないから、死んでもまた記憶が消されてしまって分からないのかもしれない。だから、死んで分かるかもしれないし、いやいや、死んでみても分からないのかもしれない。
 奈良・平安時代のことに思いを馳せると、その頃にわたしが生まれていたらどんなだったかなぁって思う。お米とか魚を食べていたのかなぁ。でも、考えてみると今から1300年前が奈良・平安時代だとすると、今から1300年後もあるわけだ。それまでに最後の審判が行われる世の終わりとかが来ていなければ、単純に1000年後も1万年後も1億年後もあるのだろう。今から1300年後。この世界はどうなっているのだろう? もしかしたら今の建物がその頃に発掘されて1300年前の令和時代の遺跡です、なんていうことになっているのかもしれない。あるいは、馬鹿な子孫たちが第三次世界大戦でも起こして核ミサイルの撃ち合いでもして、地球は放射能で汚染されていてもうその頃には生き物なんてすべていなくなっているのだろうか。地球が跡形もなく吹き飛んでいる、とか? いやいや、そういう暗いネガティブな話はやめておきましょう。その頃も人類はしっかりと生きながらえていて最先端のテクノロジーを駆使して繁栄しているよ、きっと。根拠は、ないけれど。
 時というものはすべてを滅ぼして、いわば殺して滅してしまう。だから、インドの聖典バガヴァッド・ギーターでは神様であるクリシュナがアルジュナに戦争をしてしっかり戦ってこいみたいな理屈を展開させる。それって結構やばい理屈じゃないですか、とも思えなくもない。でも、考えてみれば誰かを傷つけたり殺したりなんていうことはもちろん容認できないけれど、結局、時というものがすべてを破壊して滅ぼしてしまう。となると、少しでも長く健康に生きようとすることだったり、誰かを生きながらえさせることって価値があるのだろうか、なんていう破滅的な問いが生じてくる。どうせ時がすべてを滅ぼす。だとしたらどうしてより良く生きようとするのだろうか? 分からない。言うまでもなく「どうせ」という投げやりな言葉が良くないのかもしれない。今のわたしの思考はこの人生の意味が何だかぼんやりとし始めている。何かの宗教だったり、スピリチュアルであればそれに意味だったり目的を与えてくれるだろう。でも、本当の確実な絶対確実な最終回答というのは存在しないのではないか、というように思う。謎でぼんやりとしている。その分からないはっきりとしたことが言えない状況下で、「これが生きる意味です。これが真理です」と主張している人たちがわんさかいる。そんな感じではないだろうか。
 しかしながらわたしは最近、アシュタンガヨガという種をまいて水をやりお世話をすることにした。そのヨガをどこまでもやっていけば、すべての人だったり物だったりに神を見ることができるようになる、と言う。それに賭けてみようかな、と思うようになった。もちろん、このアシュタンガヨガが芽は出たものの枯れてしまったら、またその時はその時で最適なものを探していけばいいと思っている。でも、今はアシュタンガヨガの練習を、言うならば修行(とまで呼べるものではないけれど)をしていけたらなという気持ちだ。
 令和の2023年を生きるわたしのこの命。せっかく人に生まれて、今があるのだから有意義なことをしていきたい。40歳のわたしが今やれること、今だからこそできること。それがアシュタンガヨガだと思っている。まぁ、この種、芽が出たようなのであとは大切に育んでいくのみ。練習をして、練習をして、どこまでも練習をしていくという生き方(なんて言いながら毎日1時間半くらいしかやっていませんけど)をやっていきたい。
 国破れて山河ありの諸行無常の響きあり、ってか。人はいつ死ぬか分からないのだから、今を精一杯やっていきたい。ふー、急いで書いたから疲れた。さて、一休みするか。読んでくださり感謝、感謝です。サンクス!!



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