ただただそこにいる

いろいろエッセイヨガ
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 どうも朝、ネットをやってしまうと調子が下がってしまうみたいで、そんなわけで今日は朝から調子が今一つだった。やると調子が良くなるヨガも今日は土曜日でお休みの日で、ヨガに頼るわけにもいかない。「練習をお休みするのも修行です」とのヨガの先生の言葉を実行しつつあるわたし。
 何かよく分からないけれどもネガティブな考えがぽつぽつと浮かんでくる。普段いかにヨガによって浄化されていたかということを思い知らされる。
 数日前から斎藤幸平『人新世の「資本論」』を読み始めた。何か読んでいると気持ちがくさくさしてくる。それでもなぜか面白いのだろうか。読み始めると時間を忘れて読んでしまっている。3年前に出て話題にもなったこの本を時間差をつけて読んでいるわけだけれど、途中まで(半分くらい)読んだ感想は、そうだな。地球を住めない星にしないためにも経済成長を諦めて減速すべし、ということだろうか。地球の温暖化がこの調子で進んでいくと大変なことになるから、もう成長しなくていいよ、っていう論調だ。って、全然要約できてませんけど、一言でまとめろって言ったらこんな感じかと思う。
 また斎藤さんの文章はすごく的確で読みやすくてこの人、すごくできる人だなっていう感じもしてくる(もちろんできる人なのだけれど)。で、気持ちがくさくさしてくるのは、そうした著者と自分自身の年齢が近いこともあり、無意識のうちに比べてしまっているということもあるのかもしれない。
 わたしが気持ちがくさくさするとやること。それは我が家の小さな庭にあるプランターの植物たちを見に行くこと。今、ダイコンとキャベツとニンジンを作っていて、目下、成長中なのだ。特にダイコンについては本当に大きくなってもう収穫しても良さそう。ダイコンの葉っぱの緑がすごくみずみずしくて美しくて、雨が降っていたこともあり、一際活き活きとしていたのだった。
 気持ちが下がり気味の時に植物たちを見ると「よく頑張ってるなぁ」と感心する。誰にもほめられなくて、評価もされなくて、競争の土俵にすら上がっていなくて、でもただただそこにいて自分のやるべきことを全うしている。ダイコンだったらしっかりとダイコンをやっていて、ダイコンであることを放棄したりする気配を微塵も感じさせない。前にも書いたかと思うけれど、植物に精神とか心ってあるのかな? あるとしたらどんな状態なのだろう? ほぼ無に近い状態なのだろうか。それとも結構、喜怒哀楽が激しくて、わずかではあるものの、しっかりと喜びもあれば悲しみもあるのだろうか。それは分からない。分からないけれど、もう誰からの評価とか賞賛とかそういったものと無縁なのがこのダイコンであり植物なのだ。
 別の言い方をしてしまえば、植物たちはそこにいてただ生えていることしかできない。選択とか何をしようかとか動くことができない。だから、ある意味、かわいそうな存在なのだとも言えるかもしれない。そう考えれば、わたしたち人間は自分で何かを選ぶことができて、移動だってすることもできる。自由自在に動き回ってあれやこれや好きなことができる。今いる場所が気に入らなければ別の場所に移り住んだっていい。
 でも、ダイコンを見ていて思ったのは、別に誰かに評価されたとしても、されなかったとしてもそれはそれだけのことでしかない、ということ。人間がただその物事に自分の色眼鏡で見て、いろいろな価値だの何だのとくっつけているだけで、本来はそういったものは何も存在していない。もしかしたら、というか、もしかするまでもなく、これはつまりインドの聖典のバガヴァッド・ギーターが言っていたことなんだろうな。望ましいことも、望ましくないことも、成功も、不成功も、土くれも石ころも黄金も実はみんな等しくて平等なのだ、ということ。
 わたしは今、ダイコンがただただそこにいることに価値を見出している。けれども、ただダイコンがそこにいるだけであってそこには価値も何もない。ただ人間がそれをああだこうだと言っているだけ。さっきの本の著者の斎藤さんにしても、わたしと斎藤さんの二人がいて、両者には商業的価値やら知名度やら名声などの点においては差があるものの、それを透徹とした眼差しで眺めるならここに二人の人間がいる。ただそれだけのことで、それ以上でもそれ以下でもない。しがないブログでしか自己表現できていないわたしよりも有名な大学の博士号を持ち、本を出してそれが何十万部も売れている斎藤さんの方が能力的には格段に優れている。でも、それはただそれだけのことであって、それだけのことでしかないんだ。それは二人の人がいて、どっちの方が背が高いかとか、お金持ちかとか、頭がいいかとか比べているだけでしかない。
 人は優れているものに価値を見出して、それを賞賛する。それは人類に多大な貢献をしていればいるだけ、自分にとってもメリットがあるわけだから生きていく上でもプラスになる。
 ただわたしがここにいる。それ以上でもそれ以下でもない。何をしようともそのことによってわたしが変わってしまうわけでも何でもない。ただいる。ここにこうしている。それだけで、それだけでいいような気がしてきた。そうなのだ。いるだけなのだ。何をしたかが重要だと世間では言われるけれども、何をしたかではなくてただここにいる。そして、過去形となりここにいた。たしかにここにいた。それでいいのではないか。
 今、我が家のダイコンは生きていて生えているわけだけれど、近いうちに引き抜かれてわたしやその家族に食べられてしまう。でも、たしかにそのダイコンが引き抜かれて調理されるまでの間、たしかにここにいて、ここにいたということ。それだけは何があっても変えることはできない。いかなる権力やお金などによっても変えることはできない。ここにこうしていたこと。そして、今もいるのであればいること。それはとても尊いことなのだ。
 生き物はいずれは死ぬ。それは分かり切っている。けれども、全宇宙のエネルギー量が一定だとしたら、ダイコンがわたしに食べられて死のうが、そしてわたしが寿命が尽きて死のうが、そのエネルギーが別の形を取るだけのことであって、ダイコンもわたしもこの宇宙の中でエネルギーとして存在し続ける。だから、どんなことになろうとも消えてなくなってしまうことはない。少なくともこの宇宙の中でエネルギーとしてはあり続ける。すべては海の水でそれが波として様々な形を取っているにすぎない。だから、恐れることはないのだ。万物は波であって、束の間の間、立ち現れている。何だ、それだけのことだったんだ。だから、おそれることはないし、不安になる必要もなかった。
 ダイコンという波、わたしという波、そして人類や地球環境という波。すべては立ち現れては消えていくとても儚いもの。波を泡だと言い換えてもいい。堅固なものではなくて一時的なものでしかない万物。さきの本の著者の斎藤さんは地球が住めない星になる前に手を打とうと力説する。でも、それすらも地球というものに執着しているのではないか。そんな風にも思えてくる。とは言いつつも、この調子でやっていたら地球が荒廃してしまうことは事実。経済成長を、それも無限の経済成長をひたすら追い求めていけば有限な地球はボロボロになる。そして住めなくなる。分かっている。地球は大事。地球がなかったら今のわたしたち人類は生きていけないから。そうなったらみんなで「ゲームオーバー」と断末魔の叫びをあげながら死んでいくしかないのだろうか。悲しいけれどもそうするしかないのかもしれない。でも、それだとまずいから斎藤さんは警鐘を鳴らしてくれているわけであって……、と堂々巡りになりそうな予感。
 人類という80億もの波が今、危機に立たされている。でも、この波さえも透き通った眼差しで何のこだわりもなく眺めるのであれば、そこに人類という大きな、波の集合体があるだけだ。それにはもちろん良し悪しも善悪もそういったものはない。ただ、波がそれも無数のたくさんの波があるだけ。それが消えてしまうことは良くないことだ。悪いことだとわたしたちはジャッジする。けれども、それは人間にとっての、人類にとっては、というだけの話であって、すべての存在にとっては、というわけではない。つまり、人類という大きなダイコンがそのままいられるか、それとも抜き去られようとしているかその分岐点に立っているのだろう。が、それすらも聖者の目にはそれだけのこととしてしか見えていないことだろう。そう、それは良くもなければ悪くもなくて、ただただそれだけのことでしかないんだ。
 ただここにある。ここにあった。そして、今はもうない。それでいいような。ただそれだけのこと。あなたにとっては妄言に聞こえてしまうかもしれないけれどわたしはそう思うんだ。



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