2070年、そして執着

 今朝の新聞の一面に、2070年には少子化が進んでいって日本の人口が8700万人になる、という記事が載っていた。2070年か。今、2023年だから47年後か。ということは、わたしが生きていたとしたら87歳くらいになっているわけか。うむ、どうでもよくはないけれど、どうでもいいな(笑)ってまるで他人事か何かのように思っている自分がいる。日本の人口のうち1割が外国人になるということも書いてあって、その頃には当たり前のように外国人がいる風景がある。でも、どうでもいい? よくないかもしれないけれど、どうでもいい(笑)。
 2070年ってどうなっているんだろう? どうでもいい2070年だけれど、そのことが気になって仕方がない。もしかしたらだけれど、その頃には死が克服されているかもしれない。謎だった死という現象が解明されて、それを避けられるように。その結果、ちまたには100歳超えの人が普通に歩いていて、「死ななくなって良かったよね~」と気楽な立ち話をしている。ってそうなったらどうする? あるいはそこまでいかなくても、脳を完全に電子媒体に移植することができるようになって、永遠にわたしたちはそれぞれ意識としてその機械の中で生き続ける、なんてことが可能になっているのかもしれない。肉体はもうすでに死んでいるのだけれど、意識は永遠に生き続ける。そんな未来が待っているのだろうか。
 1億総電脳化時代到来なんて、そんな日が2070年までにやってくるかもしれない。でも、そういったことはそもそも必要のないことなのかもしれないと思ったりもする。現在も、人間死んだらこうなりますよ、っていう死後の世界のモデルは無数にある。わたしが信じているキリスト教であっても、死んだら天国へと行くわけだし、最近かじり始めたインド哲学だったりしても、しっかりと来世があって生まれ変わる。だとしたら、そんな自分が意識として生き続けるだ何だというのは必要のないことなんだ。でも、でも、キリスト教が教える通りにもならず、インド哲学が語っていたことも事実ではなかった、となれば虚無になるだけだからそのためにも自分が意識として電子機器の中で生き続けるという選択肢は魅力的であり続けるんだ。
 消えたくない。抹消されたくない。居続けたい。そういった人間の思いが永遠の命などの死なないという思想を生み出してきたのかもしれない。なんて、キリスト教徒が言ってしまっていいものなのか葛藤はあるけれど、それでも、そういった人々の願いだったり思いだったりが永遠という観念を紡ぎ出してきた、という可能性は大いにある。
 でも、最近わたしは変わってきたのかどうなのか、少しばかり考えることも変わってきた。別に消えるのなら、消滅するのなら、それでいいじゃないかと開き直りつつあるのだ。だってさ、どうしようもないじゃん。どんなに「消えたくないんですぅ」と泣きながら懇願しても消える決まりになっているんだったら消えるしかないし、永遠の命というものがやっぱり事実であって本当だったとしたら永遠に生き続けなければならないんだからさ。これはわたし個人にはどうしようもできないこと。もうそのように決まっていて、そうならなければならないのだとしたらわたしが駄々をこねたってダメなんだ。その大きな流れというか、摂理のようなものには従わなければならない。
 だからこそ、それであればこそ、なおさら今を生きる、それも楽しく幸せに生きることは尊くて価値があって必要なことだと思うんだ。死んだらどうなるかなんて誰にも分からない。わたしにだって分からない。永遠の命とか天国を信じてはいるけれど、「じゃあ100%確実にそうなるんですか? そう断言できるんですか?」と言われてしまうと究極的なところは分からない。わたしが正直すぎるのかもしれないけれど、常識的な考えを持ち続けるのであれば、こうとしか言えない。死んだらどうなるかなんて死んでみなければ分からない、ってよくみんな言うけれど、もしかしたら死んでも分からないかもしれない。分かるための自分の意識自体も消滅してしまって分かることさえもできないかもしれない。でも、それならそれでいい。なるようになってくれればいい。わたしにできることはその大きな流れに従うことだけ。
 それに無というのも案外悪いものではないのかもしれない。最近思うことは、すべてを手放すということは結局無になることではないのかなぁってふと思ったりもするんだ。って危険な思想に足を突っ込み始めているのかもしれないけど。
 ヨガの思想の手放すという考え方に出会ってわたしは本当に変えられた。今までのわたしはしがみついていた。それを手放したらすごく自由になったんだ。
 と、今、すごく難しい問題にぶつかってしまった。これに対してわたしは今、答えを出すことができない。無は良いのか?、と考え始めたら詰まってしまったのだ。何もないこと、存在しないことはいいことなのか? 望ましいことなのか?、という難問にぶつかってしまった。
 目の前に一輪の花が咲いている。執着を手放した方がいいからと、引き抜いて焼き、灰にしてしまった。花はそこにはもういなくなった。これってどうなんだろう? 良かったのだろうか? 抹消してしまった、消してしまったことは良かったのか? 良い? 良いって何だ? だれにとっての良いなんだ? 良かったなんだ? そこをコンクリートで固めるのだとしたらそこに花があると邪魔だからなくしたのはいいことだ。でも、その花を見て「あぁ、きれいだな」と思っている人にとってはその花がいなくなったら、いいかどうかは別として寂しいし、もっと感情が動くのであれば悲しい。悲しい。何で? いなくなってしまったから。じゃあ、誰も悲しいと思ってくれず、いなくなってほしいとすべての人が思うのだとしたら? それでも、神様はそう思ってはいないよ。それに一人、たった一人であっても、そういう悲しいと思ってくれる人いるんじゃないかって思う。誰か一人はいるんじゃないかって。
 と書きながらも、生きることは執着だと思ってしまうわたしが一方ではいる。でもね、わたしが経験したことなんだけれど、死にそうになると「生きたい」っていう強い衝動がわき上がってくるものなんだよね。25メートルしか泳げないわたしのような人が海の沖のほうでヨットに乗っていてそれが何度も何度も転覆して海に投げ出されたらまさに生きるか死ぬかの世界なのであって、その時にわたしは自分の内側からの激しい衝動を覚えたんだ(もう20年くらい前に父と一緒にヨットに乗ったことがありまして)。執着だ何だと言っているのはまだ頭で考えている。でも、本当に死にそうになると、生きたいという思いがドカンと爆発するんだ。その海に投げ出された時に「わたしは平安な境地を目指しているのです」なんて何もしないで言っていたら死んでしまう。
 言うまでもなく煩悩まみれなわたし。煩悩を減らすことはいいけれど、完全になくそうとすると命を捨てることになってしまう。もしかしたら、悟りというのは極限まで煩悩を減らせた状態なんじゃないかって思う。生きていること、生命活動をしていること。そのために食べたり飲んだりすること。それさえも執着だとするのであれば死ぬ以外に選択肢はなくなってしまうし(おそらく餓死になるでしょう)、お釈迦様だって悟りたい者は死ぬように、などと言われてはいない。だから、無になるのではなくて、有としてそこに存在する。花として咲いている。それも無上の美しさで穏やかに。波風一つ立たない湖のような心持ちで。
 静けさ、そして穏やかさ。それは決して無ではない。そこにはかすかな音はあるし、風だって吹いているし、木からは葉っぱが落ちているし、虫だって飛んでいる。それでも、そこには無上の平安がある。無音にするのではなくて、静けさを目指す。何もなくなったら、そこには何もないだけだ。わたしが死んだら無になるのか? それはわたしには分からないし、誰にも分からない。でも、この人生を穏やかに過ごせていけたらと思う。穏やかに、穏やかに。そして、もしかしたら最期には無になってしまうのかもしれないけれど、そうなったらそうなったでそのことには執着せず、ただ大きな力にわたし自身を委ねていきたい。委ねる。それこそが執着を手放した境地なのだと思うから。