ヨガ貧乏とミニマリズム

いろいろエッセイ
この記事は約7分で読めます。

 あぁ、女の子のお尻を追いかける気がしない。のっけから何馬鹿なことを言ってんのよ、ってな感じだけれど、実際そうなのだ。なぜだろうと問うまでもなく今が充実しているからだろう。そして、結構やることが盛り沢山で女の子を追いかけている暇がない。
 買い物にお料理に読書に執筆にと何だかんだやっていると一日が終わっている。あ、それから朝はヨガね。週5でヨガをやっているわたしなのであります。
 それからどうして女の子を追いかけようと思わないかと言えば、お金がないからというのも理由としては付け加わるだろう。そう、友達や恋人なんかとの交際費というのは何だかんだかかるものなのだ。もしも、彼女や友人が出来たとしたら、お洒落なスタバでコーヒーを、とか、レストランでランチを、なんてしゃれたことはできなくて、水筒と弁当持参のピクニックくらいしかできない。それもこれもヨガを習いに行っているから。これがお金を食うわけなのです。今、収入と言えば障害年金だけだからその中からヨガのレッスン代ならびに交通費を払うだけでかなりの出費となる。でも、朝、ヨガの道場から帰ってくる時の気持ちはとても爽快でまさに格別そのもの。う~ん、やめられませんな。これってヨガ貧乏なのでは? 習い事にお金を使いすぎて生活に支障が出始めているのでは?
 でも大丈夫。対策をしっかりと打ち出しましたから。ミニマリズムで行くのです、わたくしは。ヨガを習いに行くという一点豪華主義を貫くためにも、それ以外の不要な出費は削って削り落とせるところまで落とす。そうすればやれないこともない。っていうか、今までのお金の使い方を振り返ってみると本当、どうでもいいことに使ってしまっていたなって思う。もちろん、本当にくだらない、全くナンセンスなことにお金を使ってきたわけではなくて、それなりにその時にはやりたいと思ったことやほしい物だったというのは事実。でも、後から振り返ってみるとそれは本当に必要だったのだろうかと首をかしげてしまう。
 この戦略を取ろうと思ったのは、何よりもわたしが働くことに対して気が乗らないからだ。出費が増えて、お金が前よりもかかるようになりました。さて、どうするってなった時にはどう答えます? 二つしかないでしょう、選択肢は。収入を増やすか、それとも支出を減らすか。支出を減らすためには、増えた分以外の支出を減らす。あるいは増えた分の支出自体を見直す。で、わたしは働きたくないから支出を減らすことを決断した次第なのです。家計簿を真面目につけるようになってからというもの、今までいかに風任せ的にお金を使っていたかということを痛感していて、計画的に行かなきゃダメだなって思うようになった。
 でも、家計を切り詰めるのって大変だなぁとか苦しいなぁって思ってしまう時もある。でも、これもすべてはヨガという習い事を続けるため。持続可能にするため。続けていけるようにするには赤字になったとしても、それを最小限に抑えなければならない。
 で、最近始めたのが買い物にメモを持って行くこと。それもただのメモではない。そのメモは買い物に行く前に、買う物と大雑把なそれらの金額と合計を記したもの。それを見ながら買い物をして、逐一実際の金額を書き込んでいく。で、レジで会計をする前に大雑把にいくらになるか計算しておく。計算して設定金額内に収まるようにするのだ。この方法は効果覿面でものすごい効いて、決めておいた金額内でお買い物が確実にできるようになった。もちろん、実際にスーパーへ行ったら、多少プランを変更することもある。今日は納豆を買うつもりで来たけれどそれよりもブロッコリーを買った方がいいなと思って、納豆をブロッコリーに金額的に置き換えることもある。そういう時には納豆に斜線を引いて、新たにブロッコリーとその値段をメモに書いて、買う物の合計金額へと加える。
 とまぁ、習い事貧乏のヨガ貧乏となっているわたしではあるのだけれど、こうした生活を始めてみて良かったことがある。それはお金を使う時に何となく使うということがなくなったこと。また、それに加えて、特に食料品については厳選して買っていることもあり、食べ物を大切にできるようになってきたこと。もちろん、買いすぎるなんていうことはないから、食べずに腐らせるなんていうことは皆無になったし、その一つひとつに前よりも神経が行き渡る感じになってきたからとても愛おしいのだ。
 この感覚は某作家が書いていた「3万円くらい財布の中にあって一度に使えれば、何も考えないでスーパーで好きなだけ買える」などといった乱暴なあり方とは対照をなすものだろう。わたしにとっては150円のキャベツが愛おしく、大きめの200円のバナナを買うととてもリッチで贅沢な気分になり、設定金額内でお買い物ができた時の達成感にはすがすがしいものがある。それをあの作家さんは分からないんだろうなぁ。ポイポイ、ポイポイ食べたいものを適当に買い物かごに大量に放り込んで、万札3枚もあれば足りるだろうで買い物を終える。そこに食べ物への感謝の気持ちなどが生じるだろうか。あったとしてもないに等しいくらいだと思う。
 とまぁ、何とも慎ましい話を書いてきたけれど、贅沢だってちゃんとしている。それは習い事のヨガであり、日々の食事。食事はわたしが腕によりをかけて作っているもので、一流のプロが書いた本を見ながら作っているだけにものすごくクオリティーの高い料理が出来上がる。その味は平凡な店のクオリティーをはるかに超えているもので、なかなかこれだけ美味しいお店はないのではないかというくらい。
 そんなことしていないでお金をもっと稼いだらどうなんだ。死に物狂いで働いてたくさん有り余るくらいお金を手に入れて、外食なり何なりして、スーパーでも金額を気にしないで好きなだけ買えばいいのではないか。誰かはこう言うかもしれない。
 でもね、わたしはその生き方は望んでいない。たしかに一流レストランとか行けばものすごく美味しいものが食べられるだろう。だってそれはプロが作っているのだから。でも、それには及ばなくてもそれに準ずるくらいのものであれば自分でだって十分作れる。それに自炊のいい所は、自分好みにすることができる所で、健康のために油と塩を少な目にしておこうとか、辛さをもう少し抑えておこうなどと調整することができる。けれど、お店の料理は作ってくれる人にあらかじめこうしてほしいとか言っておかなければその通りにはならなくて、すべてが料理人の采配次第となってしまう。自分で作る場合だったらそんな面倒なことなんかする必要がなくて、もうダイレクトに操作できる。
 それとスーパーで慎ましい買い物をすることにも美学があると思っている。切り詰めて切り詰めるがゆえの研ぎ澄まされた感覚と言ったらいいだろうか。とにかく欲しいもの、食べたいものをスーパーで好き放題に買い物かごに放り込むというのとは違う爽快感なり達成感があるのだ。それにその買ったものを大切にすることもできるようになる。
 たとえるなら、二人の子どもがいたとして、一人には「ほしいお菓子を好きなだけ買ってあげる」と上限もなく買い与える。もう一方の子どもには「500円までだったらお菓子を買ってあげる」と言って制限を付ける。どちらがその買ってもらったお菓子を大切にするかと言えば、その上限があって制限のあった方ではないかと思う。手に入れた物や持っている物の数が多ければ多いだけ、その分、意識をすべて集中させることが難しくなる(難しいというよりも普通はできない!)。だから、さきの子どもだったら買ってもらった大量のお菓子すべてに神経を行き渡らせるなんてことはできなくて、どうしても扱いや思い入れが雑になってしまうのだ。一方の上限500円で買ってもらった子どもはその一つひとつに注意を向けて大事に大事にすることだろう。
 まぁ、そういうわけでしてわたしは一点豪華主義のミニマリズムを実践すべく取り組んでいるところなのです。いやぁ、メリハリがすごいな。削るところの削り方がすごいことになってる、などと新しい発見や体験もしつつやっているところで、それもすべてはやりたいことをやるためなのです。だから、グチグチ言ったりはしませんよ。働かずに障害年金だけで習い事をしようなんていうある意味、無茶なことをしているわけですからね。でも、何かかえってそれが充実していて楽しい。創意工夫をこらしているのも面白い。お買物もお料理もやりがいがあるし、特にお料理は頑張って作れば極上の品にありつける。で、母も喜んでくれるし、いいことずくめ。そして、一点豪華の(料理もあるから二点豪華?)ヨガはまさに格別なひととき。
 わたしってすごく贅沢な暮らしを送らせてもらっているなって思う。ありがたいですよ、本当。この調子で感謝しつつやっていきたい。それにしても自作のカレーがうまい。いや、これは普通の店を超えてますから。

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました