信じることについて

キリスト教エッセイ
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 只今の時刻は夜の9時26分。眠い。眠くなってきた。そういうわけだからおそらく冴えたことは書けないし、そこまで冴えを求められても困る。何か面白いことを書こうにもそういうテンションでもない。何かしんみりとした落ち着いたことを書きたい。そう、お題は……、信じることについて。
 わたしたちはいつも常に何を食べるかということを考えている。そして、何を食べないかということも考えている。
 何だ、そんな当たり前のことわざわざ言わなくてもいいよ。そんなこと分かり切ってるから。
 わたしはこの食べること、つまりは食物摂取にも信じることが絡んでくるんじゃないかと思えてきたのだ。
 一般的に科学は100%正しくてこれに従っていれば何も間違えない。そんな風に思ってしまいがちだ。でも、その科学の内部でも対立が生じている。その端的な例が低炭水化物ダイエットの是非についてだ。これはやっかいだ。何しろ専門家同士で対立して意見が違っているのだから。
 こういう時、わたしたちは何を基準にしてその真偽を判断するのだろうか。国がどう言っているかとか、権威ある専門家が何て言っているかなどをもとにして自分で考えて決めるしかないのだ。しかし、自分で決めろと言われても栄養学の知識やそれを支える基礎ができているわけではない。無理だ。はっきり言って無理だ。でも炭水化物を毎日の食事でどの程度摂るかというのは日常的な問題で今すぐにでも態度を決めなければならない。それをどうやって決めるんだ? 自分の置かれた状況を見れば見るほど困難であることが浮き彫りになってくる。
 まぁ、あんまり堅苦しいこと言わないで、国の定めたところでとりあえずやってればいいじゃん。焦らなさんな。
 その意見も一理ある。でも、いつかは決めなければならない。だとしたら専門家顔負けに大学院レベル修了くらいまで究めなければならないのか。そんなことをしていたら炭水化物のことだけならまだしも、ありとあらゆる問題を引き受けて究めなければならないじゃないか。身が持たん。無理だ。それも無理だ。それに大学院修了レベルまで勉強したような識者同士が現に意見を対立させているのだから、どちらにしろその識者に自分が一人加わるだけであって争いを調停することなどおそらくはできないだろう。こうなったら誰に聞いたらいいのだろうか。みんな自分勝手な意見を言うばかりで統一された意見など誰も示そうとしない。
 こうなったら、こうなったらイエスさまに聞くしかない。「え!?」と思われたことだろう。何でイエス・キリストがここで登場してくるわけ? 今は科学的な話をしているんですけど。いやぁ~、やっぱり分かんないことは神様に聞くのが手っ取り早いと思って。ってイエスに質問するのは異種格闘技戦もいいとこじゃない? 何で急にここで宗教が出てくるの? いやぁ~、最後に頼れるのはイエスさまだけですよ。
 イエスさまだったら今のわたしにどんな言葉を掛けてくださるのだろうか。新約聖書の福音書にはもちろん栄養学問答、炭水化物問答なんていうのはないけれど、イエスさまだったらきっとこんなことを言ってくださるだろう。というかはっきりとバシっと言ってくださっている。まさにわたしのハートにど真ん中の御言葉。

 自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、……思い悩むな。命は食べ物よりも大切で……はないか。(マタイ6章25節)

 イエスさまの「思い悩むな」はわたしにズドンと刺さった。思い悩んでおりました。イエスさま、わたしは思い悩んでおりました。低炭水化物ダイエットの是非に、栄養学の正しさの是非に悩んでおりました。でも、それが本質ではない、と。イエスさま、鋭い。本当に鋭い。何を食べようか何を飲もうかと思い悩むのではなくて神様から与えられた食べ物を感謝して美味しく食べる。そのことの方が重要だとイエスさまはきっと言われるだろうと思うのだ。
 もちろん不摂生な食事をして寿命を縮めてしまうということも大いにあり得るだろう。でも、暴飲暴食しなさいとは神様は言われていないし、それはおそらくお望みではない。そうではなくてわたしたちが感謝しながら食べる姿を望まれているのだ。
 これは何kcalでタンパク質が何gで脂質が何gで、だからこれは食べるのをやめようとか、そういうことを神様が望まれているわけないじゃないかと思えてきた。それよりも、栄養に無知であっても感謝して味わって食べる人間の方が神様に断然委ねているし、その方がみ心に適いそうだ。
 もちろん大まかな栄養計算というか、見立てをすることは必要ではあるだろう。しかし、それだけが突出してしまい、まるで食事が単なる栄養補給、言ってみれば物質を補うだけのものになってしまうとしたらそれこそ残念なことではないだろうか。感謝とかおいしく食べるとか、そういうこととは逆の方向に行ってしまっている。
 イエスさまは食事を大切にされた。それもいわば会食を大事にされた。みんなで食事をするのだ。もちろんその当時にはカロリーなんて概念はまだないし、栄養素なんてまだ認知されていなかったと思う。イエスさまと弟子たちと民衆はただただ美味しくごはんを食べていたのだ。栄養計算とかそんな小賢しいことは考えずに食事の時を楽しんでいた。
 いつからわたしたちは食事において大切な食べる喜び、家族や仲間たちと食事を通して交わる喜びを置いてきてしまったのだろうか。いつから単なる栄養補給になってしまったのだろうか。
 わたしはイエスさまを信じているから何か困った時にはイエスさまに頼ることができる。それはさておき、信じること。これはとても尊い。わたしたちは信じている。宗教的な信仰がない人であっても、自分の知覚を信じているし、自らの思考や思惟が正しいこともおそらく信じている。それから世界があることも信じている。でも、それらを疑い出すと途方もなく信じることができる確実なものがないことに気付かされる。疑い出すとキリがなくて、自分の知覚も思考も思惟も世界の存在もそして神様がいることも疑わしくなってくる。となると信じられるものが何もない!! 自分が存在していることも培養液の中の脳であることを完全に否定することはできない。培養液の中で幻を電気信号で見させられているんじゃないか、という懐疑である。これは馬鹿げているのかもしれない。でも、20代の頃の哲学にかぶれ出していたわたしは真剣に懊悩していたのだ。真剣に悩んでいたのだ。もしわたしがキリスト教に出会っていなかったらこの問いに今も悩まされていたことだろう。つまり、こうだ。キリスト教を通して最終的には何かを信じるしかない、ということにわたしは気が付いたのだ。
 信じるしかない。とにかく信じるしかない。何かを信じていかなければわたしたちは生きていくことができない。
 糖質制限推進派を信じる。反対派を信じる。どちらを信じればいいのだろう。誤りを信じて実行すれば痛い目にあう。でも、決めなければならない。
 神を信じるか、それとも信じないか。どちらにするか。わたしたちは決めなければならない。炭水化物がどうこうよりも重い決断である。比較できないほど重い決断である。
 信じること。書いているうちに少しは頭が冴えだしたようだ。まぁ、それなりのことを書けたんじゃないかと思う。信じる。それはまさに賭けである。賭ける。だから面白いんだ。何かに賭けないことなどできない。それは賭けない方に賭けてしまっているのだから。ルーレットの二色のうちどちらにするか決めなければならない。分かりやすいが外すのはもちろん怖い。だからわたしは神を信じる方に自信を持って賭けている。そして、その賭けの結果が分かるのは、死んでからのお楽しみ。楽しみ、楽しみだなぁ。

P.S
でもここまで書いておきながら、栄養学も捨てきれないんだよなぁ。(苦笑)

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