十字架

キリスト教エッセイ
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 昨日、物置を片付けていたら、もう何年前になるのだろう。10年くらいにはなるだろうか。十字架のペンダントが見つかった。それは新世紀エヴァンゲリオンの「新劇場版序」という映画が公開された時にオフィシャルグッズとして発売されたもので、わたしはそれを買っていたのだ。それがなぜ物置の奥にしまってあったかと言えば、その当時はまだわたしはクリスチャンではなかったので、その十字架のペンダントをするのが、何だか、何ちゃってな感じであまり気が進まなかったのだ。そのころは自分がクリスチャンになるだなんて夢にも思っていなくて、ただエヴァンゲリオンの登場人物の葛城ミサトがいつも身に付けているこのペンダントを忠実に再現したこの商品が欲しくなり、購入に至ったという次第なのである。
 昨日からそのいわゆる「葛城ミサトのクロスペンダント」をしているわたしである。が、わたしはエヴァンゲリオンの熱心な信奉者ではない。熱心な一時期もあったけれど、エヴァのファンにことあるごとにエヴァ関連商品を巧妙に買わせようとするその商売戦略に辟易してしまって、わたしはエヴァから距離を置くようになっていた。そういうわけで、今のわたしはテレビシリーズの内容をうっすら記憶しているくらいの中途半端な中立的なところにいる。
 エヴァンゲリオンはわたしにとって青春時代を彩る思い出のある作品で、強い影響を受けている。
 そのエヴァンゲリオンをわたしは卒業できたのではないかと思っている。思春期のころはエヴァに絡め取られていた。とにかくエヴァがわたしにとってまるでバイブルのような存在で、その巧みな物語世界に引き込まれて完全に虜となっていた。しかし、今は違う。わたしにわたしの世界ができたのだ。わたしがいろいろなものの影響によってできていることは事実だ。だから、すべてがわたしのオリジナルの世界というわけではない。大抵が受け売りだし、アレンジだし、で本当の意味で独創性を発揮しているもの、というのはごくわずかなのだ。でも、そのようにいろいろなものが混ざり合ったわたしの世界、つまりわたしらしさのようなものがだいぶ出来上がってきたように思うのだ。それもそのはずで思春期というのは自分を形作りはじめる自我の目覚めの時期で、わたしは今はだいぶ固まってきたんじゃないかっていう気がする。もちろん、今だって不安定になってしまう時もある。けれど、だいたいの骨組みというか大まかなところは固まっている。わたしの今の立ち位置は青年期が終わるかどうかなというところだと思う。もしかすると、もう少し青年期が延びるのかもしれない。45歳くらいまでは青年期でいるのかも。でも、明らかに思春期の次のステージの青年期にいることは確かだ。
 それにしてもエヴァンゲリオンという作品はあれだけたくさん作品中にキリスト教のモチーフが登場してくるのに、キリスト教の本質であるイエスさまの生涯と受難と復活には一切ふれようとしない。だから、あの作品はキリスト教的なかっこよさはあるけれど、救いについてはまったくノータッチなのだ。そういうわけか教会はあの作品にあまり言及することがないようだし、エヴァンゲリオンの作品の中においても教会は登場しなかったように思う。キリスト教的ではあるものの、それは本当の意味でキリスト教的であるのではなくて、ただそれっぽいだけでしかない。
 わたしが教会に行くようになって、キリスト教の教理などを学ぶにつれて分かってきたことは十字架の意味する重大さである。本当はわたしが十字架につけられなければならないのだ。わたしは日本の法律は犯していないけれど、神様から見たら明らかに清くないし、実際、重い重い、積み重ねれば月まで届くくらいの罪を犯している。自分に都合のいいように話を持って行こうと巧妙に策略を働かせるし、神様以外のものに依り頼んでしまうし、お金は好きだし、フェアじゃないし、若い女性を性的ないやらしいまなざしでしげしげとしょっちゅう眺めてしまうし、日曜日の礼拝中にどうでもいい関係のないことをよく考えてしまうし、人を全然赦せていないし、名誉とか学歴がほしいと思ってしまうし、一日のうちで神様のことをほとんど考えていないし、などなど。わたしは重罪人だろう。そんな醜いわたしのために代わりに十字架につけられて凄まじい苦痛にもだえながら死んでくださったイエスさま。わたしのために! わたしのために死んでくださったのだ!! 神の子を十字架につけて殺すだけの価値なんてわたしにはないよ。でも、それだけの価値があるのだとイエスさまはわたしに示してくださった。神の独り子を十字架につけて代わりに殺すだけの価値がわたしにはあるのだとイエスさまは証明してくださったのだ。あぁ、何と言ったらいいのだろう。言語に絶するとはまさにこのことだろう。ありがたいとかそういうレベルの話ではない。
 だから、十字架は飾りではない。イエスさまが命をかけてくださった、それがまさに十字架なのだから、すさまじいシンボルだろう。
 わたしは十字架のペンダントをしている時、とても背筋が伸びて襟を正したくなってくる。いや、そうしなければならないような気持ちになってくる。胸の中央にぶらさげた十字架が揺れて胸に軽く当たるたびに、まるでイエスさまの鼓動を感じるかのようなのだ。かっこいいから、かわいいから、という理由で十字架の装飾品をする人もいるけれど、それは違うように思う。イエスさまの引き裂かれるばかりの十字架の受難に思いを馳せるのであれば、十字架を身に付けること自体とてもそんなおそれ多いことはできない、と萎縮してしまうかもしれない。しかし、わたしはだからこそ十字架を、そのペンダントを身に付けるのだ。身に付けたいのだ。かっこつけやオシャレではなくて、本当の意味でイエスさまのハートを胸に刻みつけるためにこれを首にかけていたいのだ。
 イエスさまの十字架がわたしの全てです、と言えるような日が一日でも早く来るよう十字架に想いを向けながら歩んでいきたい。そして、自分の十字架を背負いながらイエスさまに従っていきたい。

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