これは試練の時だ

キリスト教エッセイ
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 試練の時に神様に向き合うことができるか。
 これは難しい。なかなかできるものではない。わたし自身、試練の時というのは聖書を読めなくなるのはもちろん、読む気さえも失われてしまう。さらに死ぬことしか考えられなくなってしまい、いつ死ぬか、どう死ぬかばかり、まるで強迫観念のように考え続ける。こんな状態で聖書が読めるか。神と向き合えるか。おそらくできっこない。
 でも、今日の教会の集会、聖書研究会でこのことの大切さを牧師から教えてもらった。
 たしかにそうだ。順風満帆で物事がうまく行っている時には信仰が鍛えられることはない。そうではなくて、逆境の時、つまり神を呪い自らの運命に絶望するような時にこそ、信仰が鍛えられその人の信仰が問われるのである。
 これは信仰の核心をついていると思う。あまりに核心をついているがために、たじろいでしまうくらいだけれど、向き合わなくてはならない。
 医者だって、ありとあらゆる仕事とか専門家で考えてみれば当然のことで、うまくいかなくなった時が腕の見せ所であり、その時が勝負なのだ。夫婦だって家族だって、ありとあらゆる人間関係においてもっとも試されるのは逆境の時なのだ。逆境の時に、困った時に頼りになる人。そんな人が多くの人から信頼される。逆に困った時に逃げ出す人は頼りにはならない。困った時に何とかできるかどうか、しようとできるかどうか。それが問われているのだ。
 わたしが今の精神科の主治医を信頼しているのは調子が悪くなったりしてどん底に落ちてしまった時に、医学的な処置を適切に行って何とかしてくれるからだ。それを「どうしたらいいでしょうねぇ」と困るようだったらわたしはどうしたらいいのか、それこそ途方に暮れてしまう。
 最近わたしが思うのは苦難には聖意があるのではないか、ということだ。秘められているけれど、必ず何らかの深い深~い意味があるとわたしは考えるようになったのだ。でなかったら、苦難は単なる偶然だとか、あるいは神様からの罰だとかいうことで終わって完結してしまう。苦難が教育的な配慮に基づくものだと言い切ってしまうのはまたそれはそれで問題をはらむけれど、それでも何らかの意味はあるのだと信じたいのだ。神様がわたしたちのためを思ってその苦難を用意してくださったのだと信じることによって、神様への信頼がより深まる。そして、「何故なんですか? なぜわたしにこの苦難が与えられたのですか?」と神意を問うことができるようになる。
 神意、神様のみこころが示されないと感じる時は少なくない。けれど、神様と祈りにおいて交流していく中で、「神様、そういういことだったのですか」と腑に落ちることは案外多いのではないかと思う。でも、そこまでたどり着くことができない人が多いことも事実だ。そこまで達することなく神様を放棄して見限ってしまう。神様をすぐ捨ててしまう。
 スピードが求められるようになった。効率が第一になった。みんな急いでいる。時間がない、時間がない、としきりに焦っている。何もかもがスピード重視。朝のご飯。簡単に済ませる。昼のご飯、夜のご飯も簡単に。洗濯や掃除にも時間をかけてはいられない。仕事も効率よくこなし、最短時間で最大の仕事をする。
 こんな時代に神など求めていられるか! 日曜日ごとに礼拝? それ何かお金もらえるの? 空間に向かってアーメンアーメン言ってるだけでしょ。そんなことしても何の得にもならないし、時間の無駄。それだったら何か別のことをした方がいい。その方がずっと同じ時間を有意義に使える。その方が断然生き方として賢い。それに神様、神様言ってても何も問題は解決しないし、神様だって助けてくれないよ。この世の出来事は神様とは無関係に物理法則、つまり原因と結果のみで回っていて、それがすべてなんだよ。
 ……、神を求めることが難しい時代になってしまったと痛感せざるを得ない。心を落ち着かせて祈りの時を持ちましょう、なんて言ってもこの日本という国では聞いてもらえない。そんな暇があるんだったらたくさん働いて税金をたくさん納めた方がどれだけ人々のためになるかなどとおそらく反論される。現にクリスチャンであるわたしだって祈りのためにあまり時間を割くことができていない。だから、こういうことを言う資格はわたしにはない。
 けれど、わたしの今までの祈りを振り返ってみると、本当に多くのことを神様との対話の中で神様から教えていただいたのだ。
「どっちに進んだらいいですか?」
「こんなことがあって理不尽で頭に来ています」
「こんな嬉しいことがありました」
「もう、何が何だか分からないです。教えてください。何が正しいんですか?」
こんなことを祈ったと思う。で、その後を振り返ってみるとだいたいすべてのことにタイムラグはあるものの答えや方向性は与えられているのである。神様が何らかの形で答えを与えてくださっていることがほとんどなのだ。それに何か聖なる方向性とでも言ったらいいのだろうか。とても自分では思い付かないような聖なる考えを悟らされることが時々あるのだから、祈りはないがしろにできない。
 幸福とは何か。それは誰かから愛されることではないだろうか。それも熱く熱く愛されたいと人は願う。いつまでもいつまでも永遠に愛され続けたいと思う。そんな誰かって一体? もうお気付きだろう。それが神様でありイエスさまなのだ。わたしたちはともすると家族やパートナーなどから猛烈に愛されたいと思ってしまう。でも、人間には限界がある。どんなにアツアツのカップルであっても、その状態を何十年も続けるのは離れ業に近いほど難しいことだ。人間は気まぐれで永遠に愛し続けることなどはできない。そもそも、人間は死ぬのだ。いつかは死ぬのだ。だから、肉体においては生きている間しか愛することができない。では、天国へ行って永遠に愛せばいいのではないか、と思われるかもしれない。でも、結婚とは生きている間だけの契約であって、死後以降にも続くものではない。聖書には「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マタイによる福音書22章30節)とある。天使のようになる。わたしはここの箇所をとてつもなく自由な状態になるのだと解釈する。結婚を超越した何か新たな自由が死んで復活する時に訪れるのだ。
 神様はどんな人間とも比較できないほどわたしたちのことを愛してくださっている。そして、それは永遠に続く。終わることなく熱烈に猛烈に愛してくださっている。御自分の独り子のイエスさまを十字架につけて贖ってくださるほどまでにわたしたちのことを愛してくださっているのだ。
 わたしたちは罪深すぎて神の前に立つことなど到底できないろくでなしだ。でも、そんなろくでなしなわたしたちを、いや、もっと言うならわたしを、あなたを見捨てず心の底から愛してくださっている。それも罪とは無縁のイエスさまを失ってまでも。
 神様に人類がどう映っているかは分からないけれど、きっとみんなどんぐりの背比べなんだろうなって思う。神様の目から見たら世に言ういい人も悪い人もみんなただの人間に過ぎない。むしろ、その罪の放つ悪臭ゆえに汚染されすぎていて、神様だって呆れられることもあるかもしれない。でも、それでも、それだって神様はそんなどうしようもない「ろくでなし」なわたしたちを猛烈に燃えるように愛してくださっている。愛する価値がないほどダメなわたしたちを、である。
 そんな神様だからわたしたちに苦難を向けられるのはきっと何らかの意図があるからだと考えずにはいられない。でなかったら、神様は悪になってしまう。そんなことはあり得ない。
 旧約聖書に「ヨブ記」という書があるのだが、その登場人物ヨブはそれはそれは激しい苦難にさらされる。そして、神にその理由を問うのだった。で、終わりの方で神が登場する。神様は何て言ったと思う? それが理由については一言もふれないのだ。ただ御自分の偉大さを示し、ヨブの卑小さをあげつらわれるばかり。でも、ヨブはその答えになっていないような神様の声をじかに聞いて納得するのだ。自分が神様に対してしゃしゃり出ていたことを詫びさえするのだ。つまり、神様の声を聞くと無条件で納得してしまうのだ。そして、自分が土の器に過ぎなかったことを痛感させられる。
 わたしも今までに何回か神様の声を聞いたことがある。声と言ってももちろん音声的な声ではない。心にしみこんでくるような声だ。音ではない声。論理的には破綻しているけれど、論理など突き抜けているたしかな神様の声。自分が小さなちっぽけな存在であることを思い知らされる声。
 理屈で納得するだけが納得ではない。理屈も必要だけれど、それを超えた超越した何かもあるのだ。それが人間を納得させる。問いと答えの単純な組み合わせからしたら、答えになっていないような答えだ。けれど、その形式外の答えに人々は納得させられてきた。これはある意味、神秘体験とも通じるところがある話かもしれない。クリスチャンは聖霊を信じていて、今聖霊がわたしに働いているとか真剣に思ったりもする。だから、神様の声ではない声を聞き取ろうとすることが大切なのだ。
 試練。それは人を鍛える。試練や苦難にはきっとすべてに意味がある。だから、苦しくなってきたら神様と対話して「どうしてですか?」と聞こうではないか。そうすれば神様は必ず理由を教えてくださる。教えてくれない時もある。けれど、粘り強く神様に問い続ける。もしかしたら、生きている間には答えが与えられないのかもしれない。でも、世の終わりの最後の審判の時にイエスさまならびに神様の前に立つ時に理由を問えばいいのだ。そうしたら必ず教えてもらえる。もしかしたらその理由があっけないほどシンプルな理由なのかもしれない。拍子抜けするほど単純な理由なのかもしれない。だったらそれでいいじゃないか。少なくとも世の終わりがいつ来るかは分からないけれど、いつか必ずやってくるのだ。そうすれば分かるのだ。はっきりするのだ。
 待てない? 晴佐久神父の言うように2億年待とうは長すぎるけれど、まぁそれくらいまでには終末はやってくると思う。ネット社会に毒されたわたしたちにとっては長い時間のように感じる。でも、すぐのような気がするのだ。もうすぐ。終末は2億年以内にはおそらく来ます。だから、待とう。きっと1億年くらいでやってくるから(笑)。いやいや、すぐ来るって。これも試練だ。そうだ。試練に違いない。

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