わたし、ブレてる?

キリスト教エッセイ
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 今から何をやろう。時々、迷う星である。自分の軸はしっかりしているつもりだけれど、それでも迷う。あの人はこれをやることをすすめていて、また別の人はこれをすすめている。さて、また別の人は……、と人の数だけおすすめがあり、流されやすいわたしは迷ってしまう。これって人から影響を受けすぎているのだろうか。おそらくしっかりとした自分というものがないのだろう。だから、迷ってしまうんだ。
 わたしが思うに、わたしって素直な性格だと思う。何か言われるとそうだなって思うし、それとは反対の意見がまた入ってきてもそうだな、って思ってしまう。こんな調子でやっているとブレまくることは言うまでもない。いかんなぁ。人生ブレブレじゃないすか。
 と言いながらもわたしはブレながらも重要な局面では決断してきたし、それができた。一番わたしにとって大きな決断は受洗だった。洗礼はしっかりと自分で決められたよ。だから、まぁ、細かい小さなことでブレブレでも大きくブレなければいいんじゃないのって思うんだ。
 とは言えども、何というか提案する人の提案がそれぞれもっとものように思えてきて、それをやるとバラ色の人生が待っているかのようで、次から次に振り回されている。もちろん、その誰かからのおすすめだって、自分が必要ないと思えばやらないし、採用することだってない。
 つまり? ここまで自分のブレ具合、ブレやすさについて思いつくままに書き連ねてきた星である。まとまりのない文章でしたね。ぐだぐだ、ぐだぐだ思い付くことをただ書いている。そんな文章面白いんかい、とつっこみたくなってる。自分で自分に、である。
 というわけで、ここからはしっかりと考えながら書いていきたい。(またまとまりのない文章になっておりましたらご容赦くださいまし。)
 とりあえず、今わたしが取り組んでいることを列挙すると、本を複数冊読んでいる。『インターネットポルノ中毒』(再読)『いやな気分よさようなら』(再読)『引照つき聖書』『聖書は誰のものか?』『世界の半分が飢えるのはなぜ?』『アーユルヴェーダが教えるせかいいち心地よいこころとからだの磨き方』(3回目)『新版インドの生命科学アーユルヴェーダ』(再読)『桜の樹木学』『キリスト教神学入門』(3回目)『ヘブライ語入門』。
 って10冊も読んどる(汗)。どうりで進まないわけだ。って自慢じゃないよ。本当、読むのがゆっくりなもんだから、なかなか1冊が終わらないの。うーむ、どうしたもんかね。
 こんなときに著名人はいろいろなアドバイスをしてくれるんだ。「1冊ずつ読みなさい。」「3冊ずつ読みなさい。」「30分ずつでたくさんの本を読みなさい。」ってどれがいいんじゃい。わたしは混乱する。しかもどれも各界で成功したような人たちが言ってるんだ。情報を、選べないよ。みんなもっともなことを言ってるような気がしてくるんだ。
 と考えてみる。彼らはわたしの本読みについて責任を取ってくれるのだろうか、と。おそらく、いや絶対取らない。わたしが1冊ずつ読んで失敗してもそれをすすめた人は責任取らないし、その他の人だって何ら責任は一切取ろうとしない。みんなそれぞれそのやり方が一番いいと思ってアドバイスをしているんだけれど、誰もそれについて責任を取りはしないのだ。さらに、その本などのメディアを通してやり方をすすめてくる人はわたしのことを何も知らない。わたしがどういう人間で、どういう暮らしをしていて、どういうことが得意で苦手で、みたいなことを一切知らない。わたしの顔と名前すら知らないのである。となると、一番わたしのことを知っているのって誰だろうと考えるとわたしと神様くらいだということに気が付く。
 はっとした。そうか。アーユルヴェーダで言うところの自分の体と心の声を聴けばいいんだ、と。そして、神様からの声も聴く。両者がくい違う場合もあるかもしれないけれど、そうなったら神様に調停してもらえばいいんだ。
 自分のことって知っているようで知らないとアカリ・リッピーというアーユルヴェーダのセラピストは本の中で言っている。
 自分のことを知る。どういう人でどんな風に扱ってあげるのが一番効果的なのか、と。自分の詳細な取扱説明書をつくってみるのもいいかもな。

「星大地の取扱説明書」
 コーヒーを飲んで歩くと調子が悪くなる。またポルノとネットでもメンタルが悪化して体調不良になる。調子が悪くなると思考は緩慢になり、固まってしまう。その時には神経が過敏な状態になっていて普通の生活を送る程度の刺激でも耐えられなくなる。そうなると、最悪寝ているしかない。
 反対に朝風呂に入り、朝散歩をし、手作りのバランスのとれた食事をすると調子が良くなる。早寝早起きも体調がいい方向に傾く要因。寝る前にアクティブな読書をすると眠れなくなる。もちろん寝る前にパソコンなどをすることは論外。

 さっきの本読みの話であれば、すべての方法を試してみて一番しっくりくる方法を採用すればいいのだ。何だ、それだけのことだったのか。別に難しいことでも何でもなかった。
 自分を知る。そのためにも神様と対話していきたい。それが一番自分を知るための方法なのかもしれないとも思うからだ。もちろん、自分の体と心の声も聴いた上での話だけれど。ってわたし、ブレてる? クリスチャンだったら神様の声を聴く一択でしょう、とあなたは言われるかもしれない。でも、わたしは自分の状態とか感覚も大切にしていきたいんだ。聖書には「自分を打ち叩いて従わせる」とかあったと思うけど、それは違うんじゃないかな。自分も大事に、大切にしようよ。で、そうしていても神様が自分を打ち叩いてでも従わせなさいとおっしゃられるのならもう仕方がないけど、そうでないのなら自分をも大切にした方がいい。何か違うかな? 神学的に間違ってる? でも間違ってるなら間違ってるでもいいよ。間違っていてもそれがわたしの考えであり、思想であり、同時にわたしの神学でもあるんだから。ま、どっちの神学が正しいかなんていうのは生涯を尽くしても決着が付かないだろうけれどね。
 自分をいたわる。大事にする。そして他者にも同じようにする。それこそ隣人愛じゃないかって思うんだ。違う? も~う、困ったな(苦笑)。

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