とらえ方ひとつで

キリスト教エッセイ
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 日曜日、礼拝が終わり信徒の方と交わりを持つ。礼拝がメインであることに変わりはないけれど、わたしはこの時間がとても好きで、いつも新しい気付きや励ましや慰めなどが与えられる。わたしにとって大切な時間である。
 それは母にとっても同じようで、このブログでもたびたび紹介している教会員のOさんとは親しくさせていただいていて、親子ともどもお世話になっている。
 たしか先週の日曜日の礼拝後だったかと思う。母は早速、Oさんと話をしていて、それに遅れること10分くらいでわたしも話に加わった時のことだった。
 Oさんはわたしにこんなことを言った。それは「とらえ方ひとつで物事は違って見えてくる」というよくありふれていそうでありながらも、深い言葉である。さらに「毎日同じように過ごすんだったら、気持ちが明るくて楽しい方がいいんじゃない?」と微笑みながら言う。
 わたしはこの言葉にひとかけらの真理を垣間見たような気がした。
 仮にわたしが腰が痛いとしよう。朝起きると腰が痛い。姿勢を変えるだけで痛む。もちろん、そういう時はできることはした方がいい。湿布を貼るとか、整形外科へ行くとか、何か良くなる体操をするとか。でも、できることをしたら、やったら、もうやることはないのだ。そうしたことをやって少し痛みが緩和されたとしても痛いことに変わりはない。だったらどうするか。痛いことは変わらないとしても、その意味付けを変えるのである。
 仮に、と腰が痛かったらという話をしたのは、さきほどの話をしてくれたOさんは腰を痛めていて、それはそれは痛いそうなのだ。夜眠っていても痛みで目が覚めることがあるそうだし、朝ベッドから起き上がる時などには激痛が走ると言っていた。でも、Oさんは不平不満や泣き言や文句などは言わない。そこがOさんのすごいところというか、人間的に成熟されているところだと思うのだが、「痛い時、どうそれを考えるのですか?」とわたしが聞くと、Oさんは「神様がわたしに何を教えてくださろうとしているのか考えるようにしています」と答える。さらにOさんは「痛みも神様からの恵みです」とはっきりと言い切る。
 彼女からあふれ出てくる言葉を前にすると、いかにわたしがちっぽけなことで心を騒がせていたかということに気付かされる。話の次元が違いすぎて何だけれど、わたしはこのブログのアクセス数が少ないことについて悩んでいた。ほぼ毎日更新しているのにアクセス数が20って何なんだよ、と不平不満をこぼしていたのだ。20しかないのはなんでだ、と不満だったのである。そう考え始めると、自分が報われていないようで、途端にみじめに思えてくるのだった。何万、何十万、何百万とアクセス数を得て、収益もうん百万も得ているブロガーのトップ集団と比べた時、自分のブログがまるで塵や埃やカスではないか、と気持ちを暗くさせていたのだ。
 でも、Oさんの言葉を聞いたら元気が出てきた。アクセス数にしても20「しか」ないのではなくて、20「も」あるではないか、と。ほとんど文字だけで、2000文字以上もある長文の記事にアクセスが20もある。「も」あるんだ!! 逆に20しかないどころか、20という数がとても多いようにも思えてくる。だいたいわたしが生きているリアルな毎日の生活の中で20人もの人に文章を読んでもらえることなんてまずないだろう。たしかに数千人、数万人の読者がいて、たくさんの人に読んでもらえたらと思う時もある。でも、数もあるけれど、数じゃない。いかに自分が良質な記事を書いて、読者は数人しかいないとしても、彼らにその贈り物を真心を込めて届ける。数少ない読者のために一生懸命いい文章を書くのだ。そして、わたしの文章を読んでくれている人たちが少しでも幸せになってくれればいい。何もたくさんの人に影響を与えることにこだわって、そうでなければ価値がないなどと思うことはなかったのだ。だから、わたしは農家にたとえるなら、家庭菜園くらいの規模で野菜とかの作物を作っていて、それを無料で家の前にでも置いて持って行ってくださいって配っている感じかな(ほぼ無料配布)。持って行ってくれている人は特に野菜の出来映えなどについてはコメントしてくれない。でも、この営みは誰かを幸せにしているんじゃないか。もちろん、わたしの野菜を食べて、腹痛になって便秘とか下痢とかになってしまったとしたら問題だけれど、今のところ、そうした苦情はほとんど来ていない。
 影響力の大きさ。規模。仕事の大きさ。大手出版社から次々と新作を発表している作家さんと、わたしみたいにほとんど収益にもつながらない文章を書いている人。どちらが優れているのだろうか。そう考えるとき、カネを生み出しているかという発想だけで考えるなら断然売れっこ作家の方が優れていることになるだろう。でも、たとえ1円にもならない文章だとしても、作品を発表してそれを数少ない人たちにではあっても読んでもらって、彼らの心を潤しているのだとしたら、それはそれで尊いのではないか。だから、「お前の作品は1円にもならないんだよね。それなのにご苦労様」とか言ってはならないと思うのだ。誰かが誰かを楽しませたり、ワクワクさせたり、感動させたりする。それは賃金が発生しなくとも、そうした営みは尊く貴重で素晴らしいものなのだ、とわたしは思っているし、そう思いたい。
 ここまで少し話が逸れながらも、これはこれで意義があることを書けたんじゃないかって思う。とらえ方。このシンプルなとらえ方ひとつで物事はいくらでもいいようにも悪いようにも、まるでコインの裏表のように反転させることができるというのは、同じ状況であっても違うように解釈することができるということだ。
 だったらわたしはネガティブな面を見るのではなくて、ポジティブな明るい側面を見ていくようにしたい。そして、状況が変わらないのであれば、心に明るい灯をともして人生を楽しんで行けたらと思う。状況というものは人生において大きく作用してくるけれど、それだけではなくて、それをどのように受け止めるかという受け止め方が人生に大きな影響をおよぼすのである。
 お会いするたびOさんはとても幸せそうだ。わたしもOさんにならって、笑顔で楽しく快活に日々を生きて行けたらいいな。人生の方向性を先輩クリスチャンとして示してくださったOさん、そしてOさんを通してわたしに恵みを降り注いでくださる神様に感謝、感謝なのである。ありがとうございます。

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