自由でいいんだ-NHK「こころの時代 問われる宗教とカルト 第1回」の感想

キリスト教エッセイ
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 今行っている教会の周りには住宅があるのだけれど、そこに住んでいる人たちが時折わたし及び教会員に向ける眼差しが統一教会の問題がクローズアップされるようになってからというもの、急に厳しくなってきたような気がする。普通の、というか一般の人から見たらわたしの教会も怪しげに見えてしまうのだろう。まぁ、仕方がない、というのは語弊があるけれど、キリスト教のイメージ自体がだだ下がりなのだ。
 そんなわけで、というか昨日は録画してあったNHK「こころの時代 問われる宗教とカルト 第1回」を見た。日本を代表する宗教界の識者たちが話し合うという番組で、わたしはこの番組を見ていろいろと教えられ、また自分自身の信仰とか教会生活のあり方についてもあらためて考えさせられる機会となった。内容を子細に紹介してダイジェストを、というのはわたしの力量から言っても無理だし、そんなことをしても意味がないと思うので、いくつか番組の中で印象に残った言葉とか内容をとりあげて、それに対するわたしの拙い感想などを書いていけたらと思う。
 わたしは若松英輔さんの発言がこの番組内でひときわ光っていたと思う。若松さんはカルトの特徴として次のことをあげる。
 ①恐怖
 ②搾取
 ③拘束
 まず、恐怖で人を縛る。これをやらないと地獄へ落ちて苦しむことになる、などと言ってとにかく脅す。恐怖によって人をコントロールして支配しようとするのだ。これは何よりも手っ取り早い。で、地獄に落ちたくなければこれをしなさい、とその人に命令するのだ。
 次の搾取は、とにかく相手から搾り取ろうとすることで、特にお金などを持っていない人から絞り取ることが問題で、徹底的にお金などの財産やその人の時間や労力を奪おうとする。そして、根こそぎ洗いざらいかっさらって、宗教団体側が利益だけを得るのだ。
 最後の拘束は、本来宗教というのはその人の自由意志によって行うものであるのだけれど、自由に活動に参加するのもよし、休むのもよし、やめるのもよしと自分で決めることができるものであるはずなのに、それを何が何でもやめてはならないとか、やめると不幸になる。活動をやめたらお前は地獄行きだ、などと言って①の恐怖と併用させながらその人を拘束するのだ。
 この若松さんのカルトの三項目を聞いて人事ではないな、ってわたしは思った。それはキリスト教にしろ、宗教というものは一歩間違えばすぐにでもこうした方向へと転落しかねないからだ。これって教派によっては結構というか、かなり当てはまるところあるんじゃないかって思う。活動に真面目に参加しないと地獄とか、礼拝を休むなんてことはクリスチャンとしてあるまじきことであってたるんでるぞ、とか多額の献金をした方が神様に従えているからそれをやるべきだとか、やめるなんてもってのほかで教会と添い遂げるくらいの覚悟でいけ、とかうちの教会はそんなんじゃないけれど、何か厳しい教会だとそれくらい言ってそうだなぁ。牧師がこわい顔してさ。
 実はわたしもうっすらとだけれど、教会からこの三項目のかすかな匂いを感じる時があるんだ。正直に告白するとね。たしかにこれをやらないと地獄へ行くなどとはうちの教会では言わないし、そんなことは教えていない。けれど、何か分からないけれど真面目に清く正しく生活しなければ天国へは入れないような、そんな空気が教会にはかすかにだけれど漂っているんだ。これはうちの教会が、って言うよりはキリスト教の長い歴史によるものかもしれないな、とも思うんだ。何だか清く正しくないと救われない、みたいな。わたしはこの問題については回答を保留しているんだ。清く正しくなければ救われないかもしれないし、そうでなくても問題なく救われるかもしれない。それは神様しか御存知ではないことじゃないかってある意味ドライな目で見ているんだ。でも、それでも神様は悪いようにはなさらないだろうから、日本人のうちの圧倒的大多数(99%)のノンクリスチャンだって救ってくださるだろうな、っていう希望は持っているんだ。しかし、それは希望であって、実際、事実の問題としてどうかっていうとわたしは神様じゃないから分からないなっていうのが正直なところなんだ。わたしってすごく正直でしょ。
 で、その他にはクリスチャンあるあるとして、献金はたくさんした方が敬虔なクリスチャンで信仰が深くて真面目で素晴らしいんだ、みたいな思想もしっかりと残っていてその無言の圧力を感じるときがある。まぁ、あるあるですな。
 さらには前にも書いたけれど、宗教活動というのは自由なものであって、そこの教会に所属しているといっても、必ずしもそこだけで礼拝を捧げなければならないわけではないのに、暗黙の掟としてひたすら自分の所属する教会に通い続けなければならないというプレッシャーがある。これはたしかにある。これもキリスト教あるあるだな。これって若松さんの言う三項目のうちの「拘束」にふれているんじゃないかって思うけれど、決して気のせいではないよね。あと、宗教活動が自由だということは、引き続き活動するもよし、お休みするもよし、やめるもよしのはずなのに、何だか教会には一生、教会生活を死ぬまでやりましょう、みたいなそんな圧力を感じるんだ。別に自分の所属する教会と添い遂げなければならないってこともないのに、真面目な人ほどそう思ってしまう空気がある。教会はそもそも出入りが自由。その言葉を番組内で聞いた時、わたしの目からうろこがぽろりと落ちたのは言うまでもないことだろう。わたし、マジメちゃんだからね。
 他には若松さんはこんなことも言った。信じる自由と迷う自由がある、と。信仰生活を送っていれば迷うことだってある。あるいはもっと進んで疑ってしまうことだってあるかもしれない。でも、だからこそ、教会の聖職者はその信徒に、そしてその信徒のその気持ちに寄り添わなければダメだと若松さんは力説するのだ。若松さんがカトリックのどこの教会に所属されているかは知らないけれど、そこの神父さんは本当に優しいのだろうなって思ってしまったよ。さらには、離れたいと思うことに寄り添う。これってなかなか聖職者にとって難しいことなんじゃないかなぁ。やめたいとか離れたいって言う信徒に寄り添うわけだから。でも、何かとってもあったかい世界だな。「離れたいなら勝手にどこにでも行け。後は知らんぞ」なんていうのは問題外としても、やめたいと言う人に寄り添うって素晴らしいなって思う。
 最後に、これも若松さんの言葉。「救いはお金で買えない」「神様はお金は要らない」「救いは売ったり買ったりできない」。
 そうだよな。核心を射抜いているよ、若松さんの言葉は。実はこれを聞く前は、神様だってお金を捧げられれば嬉しいんじゃないかって内心思っていたんだ(神様に多めの献金を差し出すその心、気持ちを喜んでくださるんじゃないかって)。でも、違うんだ。神様にお金は必要ない。わたしたちにはお金は尊いものだけれど、神様は無限と言ってもいいくらいの金銀財宝はおろかすべてのものをお持ちなのだ。だから、神様からいただいたお金をわずかばかり返したところでそれが一体何になるのか、という話でもあるんだ。この若松さんの言葉には教会への献金についてどのように臨んだらいいのか、っていうヒントが詰まっていたな。あと、お金をたくさん献金した方が天国が近付くというのも誤りだったんだ。ってそれじゃあ、人間と一緒じゃんか。お金をあげればあげるほどその人が優しく振る舞ってくれます、だなんてそんな現金な優しさは神様の本当の優しさではないっていうことだな。お金の多寡にかかわらず、無条件で無償でただただ恵みを一方的に与えてくださる。そんなお方が神様なんじゃないか。わたしの献金観、少し修正が必要だな。自分の生活状況に応じて捧げられるだけ捧げればいい。とても気持ちが楽になってきたよ。
 宗教は人間を縛るものではなくて、自由にするもの。だったら、自由な姿勢で、あり方で信仰生活を送っていっていいんじゃないか。自由でいいんだ。神様もきっとわたしが自由にのびのびと信仰生活を無理をせずに送ることを願われているんだろうな。
 とこれで番組の感想になっているか疑わしいところがございますが、これがわたしの感想文でございます。自由な心で、自由に信仰生活が送れたらと思いつつ、この感想文を終わりたい。自由。尊いなぁ。

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