生きているって当たり前のことじゃないんだ

キリスト教エッセイ
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 午前中は薄曇りでお日様が出ていなくて、ひんやりしていたのとは打って変わって、お昼頃からは太陽も出てわたしの家の小さな庭をも照らしている。暑くなってきた。
 教会の誰からもらったのか、もう昔のことで思い出せないのだけれど、シソの小さな苗をもらった。そして、それがうちの庭の小さなプランターで育って、今、花を咲かせているのだ。
 とそこに見慣れない幼虫、芋虫がいた。茶色っぽい感じで模様があって、これは蝶ではなくて何かの蛾の幼虫だろう。が、何という虫の幼虫なのか名前も分からない。その幼虫はシソの葉を食料にしていて、むしゃむしゃ葉っぱを食べている。
 何を言いたいのか。そこに蜂が飛んできたのである。何やら飛び回っては何かを探している。この蜂は何を考えているのだろう。と思ったがすぐに幼虫を探しているだろうということにわたしは気が付いた。と言うよりは思い出した。これと同じか、これに似た蜂が以前(数ヶ月前)キャベツの葉でも物色していたからだ。その時は、モンシロチョウの幼虫が被害にあう様子は目撃しなかったが、最終的にタッパーに保護した幼虫以外いなくなっていたのは、おそらくその蜂が補食していたからだろう。
 とその刹那、名前も分からない茶色い芋虫はバシッと蜂に襲われてしまったのだ。本当に、瞬間の、あっという間の出来事だった。わたしはその瞬間をばっちり目撃してしまったのだった。悠久の時間、と言ったらオーバーかもしれないが、まったりゆったりとシソの周辺に流れていた穏やかな時間が突如、静寂を破って非常事態が訪れたのだった。蜂はその幼虫を捕まえたまま飛び去っていったように見えたが、近くのキャベツの葉の上に下りてあっという間に平らげると何事もなかったかのようにさらに幼虫の探索を開始したのだった。
 と、わたしの視界の中のシソの葉の上には別のもう一匹の幼虫が無防備な姿でまったり佇んでいる。「これも食べられてしまうのではないか。」とわたしは冷や冷やし始めた。けれど、シソの茂みの割合奥の方の葉の上にいたその芋虫は見つかることなく、引き続きまったりしていたのであった。
 わたしはこの光景を見て何を思ったかと言えば、わたしが恵まれているということだった。この幼虫は弱肉強食の世界に生きていて、多くが食べられてしまう。けれど、わたしは補食されることもなく生きていける。十年後も生きているだろうし、二十年後にもおそらく生きている。わたしは餓死することもなく、補食されることもなくおそらく生き続ける。生き続けることが出来る。何という恵みなのだろうか。わたしが芋虫としてこの世に生を受けていたら、おそらく蝶になる前に食われて終わっていたことだろう。そして、こうして考えることももちろんできなくて、ただただ葉っぱを食べて生きていただろう。何か、人間としてこうして当たり前に生きていることが、生きられることがどれだけ恵みであり有り難いことなのか、ということを蜂の補食劇を通してわたしは気付かされたのであった。
 考えてみれば、今こうしてわたしが当たり前のように生きていることも奇跡ではないだろうか。わたしが生まれてきたことも、こうして生きていることも、そして死んでいくことも奇跡ではないのか。
 当たり前のこと。当たり前のことって当たり前だから、多くの人はその有り難さに気が付かない。そして、失いそうになった時や失ったときにはじめてそれに気が付く。
 茶色い幼虫さんが食べられてしまったことは衝撃的で何とも言えない感覚が残っているけれども、わたしはそこからとても貴重なことを教えてもらったように思う。
 生きているのって当たり前じゃないんだよ。生きていることってすごいことなんだよ、と。
 シソの小さな白い可愛らしい花が咲いている。蜂に捕まって食べられてしまったあなたのこと、忘れないよ。その幼虫さんの姿は今もわたしの脳内に鮮明に焼き付いている。
 生きていることが当たり前のことで、そのことに格別何も感じていなかったこの頃だっただけに、この出来事はとても衝撃的でかつメッセージ性にあふれ、わたしの心を思い切り感謝する方向へと向け変えてくれた。
 わたしにすべてを与えてくださった神様に感謝しつつ生きていきたいと改めて思った星なのでした。

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