悪魔の誘惑

キリスト教エッセイ
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 わたしは何のために生きているのだろうとふと思う。そして、もしも話を考えてしまう。
 もしも、世界のすべてがわたしのものになったら。嬉しいのかな? それともうんざりするのかな?
 世界のすべてがわたしのものとは世界征服が達成された状況である。世界中のすべてのものが全部自分のもので、世界に住むすべての人間も何もかも全部自分のもの。そうなったらウハウハものだろう。単細胞なわたしは最初のうちはそう思っていることだろう。しかし、もって三週間くらいで飽きるんじゃないか。そんな気がする。
 もちろん、わたしは今現実においてそんなことになっていないし、体験することはできないのだから、これも単なる想像でしかないのだが、すぐにうんざりするだろうと思う。
 食べ放題を思い出してもらえばいい。最初は意気揚々と「おいしい。おいしい」と楽しく嬉しい気持ちで食べていたのが、満腹を超えたあたりからお腹が苦しくなってきて、それでも食べ続けると吐き気がしてきて、食べ放題の料理を見ることすら嫌になってしまう。
 目の前に広がる土地がすべて自分のもの。地球が自分のもの。それは嬉しいのだろうか。街を歩く人間すべてが自分の所有物。
 もうお気付きだと思うが、そうなったら神なんて必要なくなってる。信仰なんて馬鹿馬鹿しくてやってられない。
 とここで一番心配なことが浮上してきた。それはこの地位を誰かに奪われるのではないかということである。持ち物が増えてくるとそれを奪われたり盗まれたりしないかということが当然心配になってくる。クーデターが起こったら確実に殺されてしまうし、そういう危険といつも隣り合わせでは疑心暗鬼になり、側近などの家来を次々に殺してしまうことだろう。自分が殺されないようにするために。
 話がだんだん穏やかではなくなってきた。そうか。すべてを持つということは並々ならぬほど大変なことなのだ。
 神様を想像してもらえばそれはよく分かる。神様はすべての人間には愛されていない。むしろ憎まれて神をできることなら殺してしまいたいと思っている輩がいるくらいだ。しかも、その数は決して少なくない。
 わたしが勝手に夢想していたわたしの状況はすべての人から愛されていて、しかもすべてのものが自分のもので、と都合のいいことしか考えていなかった。しかし、すべての人に愛されるなんて到底不可能なことなのである。どうしても誰かに愛されながらも、誰かからは憎まれるのである。
 この問題を解決するには発明でもして、世界中の人間の心を自分だけ崇めるように改変しなければならない。マインドコントロールも真っ青な危険な話である。規模が違うのだ。圧倒的大規模。
 でも、そんなことまでして人民の心を掌握できたところで嬉しいのだろうか。自分でプログラミングしたロボットが自分の言うことに100%従ったところで一体何が楽しくて何が面白いのだろうか。やはり、自由意志があって、嫌う自由があるにも関わらず、それでも自分を愛してくれたという状況であってこそ嬉しいものなのではないか。
 ここまでの話、察しがいい方はお気付きだろうが、わたしはもしも話を持ち出しながら、神に近づく、あるいは神になろうとすることと同じようなことを求めていたのだ。
 そうだ、そうなのだ。これは悪魔の誘惑なのである。イエスさまはこれと同じ誘惑を荒れ野で受けられたと新約聖書にはある。悪魔から「わたしを拝むならこの世のすべてのものを与えよう」と誘われたのである。イエスさまはこれをきっぱりと退けられた。イエスさまは大工の息子として貧しい生活を送られていた時期がある。だから、富の力については誰よりも分かっておられるのである。お金を得ることがどれだけきついことかということも肌身を持って理解されているはずなのである。たしか荒れ野での誘惑は3つあったと思ったのだけれど、この誘惑が一番きつかったのではないかとわたしは独断と偏見で想像する。
 もしわたしがこの誘惑を悪魔から受けたとしたら、秒速で従ってしまうのではないかと思う。
 「神 or 1000兆円?」
 1000兆円もあればどんなものでも買える。家だってとんでもなくでかい大豪邸に住めるし、本だったら図書館をいくつもいくつも買収できる。それだけ使っても使い切ることができないのが1000兆円ではないかと思う。無尽蔵。ざっくざっく。神を捨てて1000兆円手に入れてウハウハ生活。
 でも、それで本当にいいのか? わたしの良心が急に痛み始める。とここでこんな選択肢が変換されて現れてくる。
 「神(天国) or 1000兆円(地獄)?」
 結局わたしの信仰は損得勘定ということなのだろうか。つまり、メリットがあるから信じることにしているらしいのだ。という認めたくない現金なわたしの本音が姿を現してきた。
 じゃあ、逆にわたし自信に次のように問いたい。
「メリットがなかったらあなたは神を信じないのですか?」
 難しい。難問中の難問である。つまり、こういうことだ。
「神を信じても信じなくてもあなたは地獄へ行く。そうだとしたら、それでもあなたは神を信じるのか?」
「神を信じても信じなくてもあなたは天国へ行く。そうだとしたら、それでもあなたは神を信じるのか?」
 つまり、神を信じることに何らメリットがない状況でそれでも信じるのか? ということである。
 おそらくこの問いをクリスチャンに真正面からぶつけたら多くが信仰から脱落するであろう。そんな危険な問いなのである。ちなみにこの問いもヨブ記にある通り、悪魔の問いである。
 この問いを教会の牧師にぶつけたら、「経験だと思う」といったことを返された記憶がある。経験を積んでいくことによって、メリットがなくても信じるということに同意できる日が来るのではないかということのようなのだ。
 メリットのない信仰。むしろデメリットしかない信仰。それでも信仰できるものなのか? 疑問ではある。
 殉教。それすらも現世のメリットではなく、来世のメリットを手にするために行ったこと。そう言ってしまえば言えないこともない。でもそれは失礼ではないか! 以前のブログ記事にそんなことを書いたかと思う。ただ、今冷静に考えてみるとだが、もしかしたらご褒美がなければ人間という生き物は行動しないのかもしれない。(メリットではなくデメリットしか手にしていないように思われる依存症もその瞬間のメリットのために行動していることは否定できないだろう。)しないだけではなく、できないのかもしれない。だから、たとえメリットのないことを選んでいるような時であっても、そこに何らかのメリットを見出して行動に移しているのである。うーん。何かすべての人間がメリットを得るために行動しているかのように見えてきた。まさに悪魔の思う壷なわたしなのだ。悪魔の誘惑恐るべしである。
 メリット。つまりは利益。これから人間は自由になることはできないのかもしれないと思う。人間は生きている限りメリットに呪縛されているのだ。どんなに自分の行動がメリットを狙っていないと主張したところで、そこに何からのメリットを見出しているという事実。これを打ち破るにはどうしたらいいのか。わたしは途方に暮れ始めている。そして、悪魔の誘惑に絡め取られている。まるで悪魔がクモだとすると、その巣にわたしがひっかかっていて今にも補食されそうな、そんな感じがするのである。

 神様。わたしを悪魔の誘惑、そして呪縛から解き放ってください。今のわたしにはそれを振り払うことができません。神様、あなただけがそれをおできになります。どうか助けてください。主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。アーメン。


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