感謝する人、絶対最強伝説

いろいろエッセイ
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 今日は母と一緒に祖父の通院の付き添いをしてきた。
 あれから施設に入所して毎日を送っている祖父である。施設にも医者はいるのだが、その医者でカバーできないことは通院するということになっていて、その際には送迎は施設側がしてくれるものの、病院への付き添いは家族がしなければならないことになっている。
 というわけで通院の付き添いをしてきたわけだが、何か気が滅入るし、とても疲れてしまった。「なぜだろう?」と母に自宅に帰ってきてから質問すると、おそらく祖父の態度が原因だろうとの返答が返ってきた。
 祖父の家族を思う愛情表現かもしれないが、「ああしろ」「こうしろ」といちいちうるさいのだ。まるで自分が相手を管理してコントロールしなければ気が済まないとばかりになのである。「おじいさんってみんなこういうもんなの?」と祖父を持つ孫にアンケート調査でもしてみたいところだが、うちの祖父の場合には相手に自分の思うように動くように強要してくる。押し付けがましいったらありゃしない。祖父には申し訳ないが、そういうのはとても疲れるのだ。まるで時代遅れの家父長制の父親のような、そんな祖父がとても重い。
 祖父は祖父なりに祖父の形でわたしや母を愛してくれているのかもしれないが、どうもそれを心から素直に受け取ることが出来ないのだ。
 わたしは思う。本当の愛とは相手を束縛したり拘束したりしないものではないか、と。むしろ、愛はそれを受ける人をより自由にする。生きる希望を与え、心を潤わせて、前を向いて歩く気持ちを後押しする。だから、祖父の愛は愛と呼べるのか疑問だ。
 と祖父を一方的にけなすようなことを書いてきたわたしだが、本当はそういうことを言ってはならないのではないかと今、反省し出している。
 お金も行く場所もないわたしを家に迎え入れてくれたのが祖父だった。祖母と二人で老後を暮らすために買った家にわたしを住まわせてくれた。光熱費もわたしの使った分も含めて払ってくれた。わたしの食費も負担してくれた。
 親族なんだからそれくらい当たり前じゃないか?、と思う人もいるかもしれない。でも、別にわたしだって成人しているのだから一人の大人であって、面倒を見なければならない義務など祖父にはなかった。それなのに、祖父はわたしの面倒をみてくれた。行くあてのないわたしを受け入れて世話をしてくれた。それを「「ああしろ」「こうしろ」といちいちうるさいのだ。まるで自分が相手を管理してコントロールしなければ気が済まないとばかりになのである。」などと恩知らずに批判していいのだろうか。
 わたしの良心がうずき出してきた。あれだけ助けてもらったのに恩知らずなわたし。何て恩知らずなのだろう。そうなのだ。わたしは批判するどころか、祖父に感謝の心を向けなければならなかったのだ。大切なことに気が付いた。本当に大切なことに気付いたと思う。
 だから、たしかに管理して拘束されるような祖父の態度が不快であることは否定できないけれど、逆にわたしは感謝を返すのだ。もしあそこで祖父がわたしを家に迎え入れてくれていなかったら、今も精神病院に入院したままか、路頭に迷っているか、死んでいるか、いずれかだったことだろう。だから、祖父には感謝なのだ。今もこの文章を祖父母の家の二階の部屋で書いているのだが、この家だって祖父母の家なのである。
 だから感謝、感謝なのだ。祖父の通院が歯科ということもあって、あと3回通院がある。残りの3回、嫌々付き添うのではなくて今までの感謝の気持ちを表すように関われたらと思う。
 教会員のOさんが「感謝すれば愚痴は出てこない」と言ってくれたけれど、まさしくそうだと思う。わたしは祖父に感謝できていなくて愚痴を言ってしまっていた。反省したい。感謝する人間が最強だとか以前ブログにも書いていたけれど、何にもできていないわたしである。
 感謝しよう。些細なことを些細なことだとしないで感謝しようと思う。そして、わたしの心が平和になることによって、その平和は周りの人たちに伝染していく。広がっていく。
 だから、感謝しよう。感謝する人、絶対最強伝説(笑)は嘘じゃない。

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