感謝して足るを知ること

 わたしの住んでいる近くに閑静な住宅街がある。5、6年くらい前になるだろうか。一斉に売り出されて、割合若いと言っても結構そのお家はいいお値段だったから、おもに購入したのは30~40代の人たちだったと思う。とてもきれいな新築の一戸建てが立ち並んでいて、当時はみんなとても幸せそうだった。夢のマイホーム。しかもピカピカの新築。夢も希望も膨らんでもう幸せ絶頂のはずだった、が……。
 それから5、6年後の現在。あんなに当時は幸せそうだったのに、絶頂って感じだったのに、今ではみんなの表情が暗くて重い。
 え!? 何で!?
 あんなに昔は楽しそうで幸せそうだったじゃないの。それなのに何で?
 その住宅街のそれぞれの家には車が駐車してあって、つまらなそうに車に乗って、つまらなそうに帰ってきて、つまらなそうに家の中に入る。
 みんな笑ってない。笑おうよ。こんな綺麗で新しい家に住んでるなんて幸せなはずだよ。何で、何で? 何でそんなにつまらなそうなの? 倦怠感に満ちてるよ。不幸せオーラ漂ってるよ。家が立派で新しいだけにその家と住んでいる人たちのギャップに驚かされる。みんな幸せそうではないのだ。
 それでも最初のころはみんな嬉しそうで楽しそうで幸せそうだった。表情も明るかった。それがだんだん時間が経ってくるに従って嬉しそうでなくなってきた。幸せそうでなくなってきた。
 幸せは長続きしないものなのだろうか。彼らを見ているとわたしはつくづく考えてしまう。
 新築のマイホームを手に入れれば一生幸せかと言えばそうではないようだ。マイホームを手に入れた瞬間を絶頂とすると、そこからみるみる下降していく。そして、下手をするとマイホームを手に入れる前と同じかそれ以下にまで下がっていってしまうのではないだろうか。
 どうしたらいいのだろうか。というか、何があれば、あったらこうならないで済んだのだろうか。
 わたしが思うには、毎日の日常に幸福を見いだすことではないか。当たり前の日常に幸福を再発見し続けることではないか。マイホームは手に入れたばかりの頃は幸せそのもの。そして、その非日常的な興奮状態が日常となっていくに従って、興奮しなくなってくる。
 今思ったのは、これって買い物とか飲酒と似ていないか。買い物とか飲酒を繰り返していくことによって、買い物ならより高価なものを買わなければ満足できなくなり、飲酒なら多くの量を飲まなければ酔えなくなる。まさに耐性である。だから、マイホームを手にした人が興奮するためには、さらに豪華なマイホームを手に入れることが必要になる。または、マイホームまでいかなくても豪華なハイクラスな何かが必要になるのだ。
 つまり、彼らへの処方箋として何が的確かと言えば、足るを知ることではないかと思うのだ。そして、現状で満足してそこに幸せを見出す。幸せをかみしめると言ってもいいかもしれない。もっと、もっと、ではなくて、今あるものに満足する。(もちろん新しいものを買うこと自体を否定しているわけではない。)この生き方というか、あり方を体得することが重要ではないかと思う。今あるものに満足しないで、まだ見ぬ新しいものに憧れてばかりいるとしたら、いつまで経っても満足感や充足感、ならびに幸福感は得られないだろう。
 もっと言えば安いもので満足できるとしたらそれは幸せなことではないだろうか。安いもので満足するのだ。
 逆に高いものでも満足できないとしたら、もちろん安いもので満足することも当然ながらできるわけがない。結局、よりハイクラスなものをどこまでもどこまでも求めていくことになる。そして、どこまで行っても「もっと、もっと」で満たされない。それこそ、ある意味地獄ではないかと思うのだ。どんなにいいもの、高いものを買っても満足できない。もしくは買った瞬間には満足感が得られても持続することなくすぐに渇いてしまう。
 昔の日本に戻りたいとまでは言わないけれど、昔の子どもたちが貧しい中で食べた飴玉って本当においしかったんだろうなぁって思う。ましてやチョコレートなんて贅沢品でそれを食べようものなら一日中ハイテンションだったことだろう。
 何を手に入れても自分のことを幸せだと思えない金持ちよりも、わずかなものを手に入れるだけで幸せだと思える貧乏人の方が幸福ではないかと思うのだ。(とは言えども貧乏もなさ過ぎるのは問題だが)不幸な金持ちは足ることを知らない。だから不幸なのだ。
 以上の話をふまえてわたしはどうなりたいのかと言うと、感謝しながら生きていきたいのである。「足りない、足りない」とぶつくさ文句ばかり言っているのではなく、「こんなに与えてくださってありがとうございます」と感謝したいのだ。誰に? 神様と人生において出会う人々に、である。
 わたしは「ありがとうございます」と「感謝いたします」というこの2つの言葉が好きだ。教会員のOさんが「感謝すれば愚痴は出てこない」とわたしに以前、箴言を語ってくれた。その言葉の意味が今日さらに深まったような気がする。
 「足りない、足りない」というのは愚痴なのだ。だから、感謝できていない。それが感謝し始めると愚痴は反転する。そして、そうすることによって、幸福が現れるのだ。たったこれだけ。たったこれだけのことで幸福が向こうからやってくると言うよりは、自分が幸福だということに気付くのである。今の自分がとても恵まれていることに気が付くのである。足りないのではなく、自分がこんなにもたくさんのものを与えられていて豊かだということに目覚めること。これにかかっているのではないだろうか。
 これが信仰にかかれば、自分を含めたすべてのものが神様からのギフトだということに気が付く。もうここまで来れば、愚痴や不平不満ともおさらばなはずだ。ハッピーライフが待っている。いや、待っているではなくてすでにあなたの人生はハッピーライフなのだ。今執筆しているわけだが、隣に本が積まれている。その本も今のわたしにとっては恵みであり、急に輝いて見えるようになった。わたしが今いるこの部屋もまさに恵みの象徴であるかのように光り輝いている。キラキラ、キラキラ。実際に光学的に輝いているわけではないけれど、わたしのこころの目を通過することによって輝いて見えるのである。
 恵み。神様からの恵み。人からの恵み。もうこうなったら感謝全開で行こうではないか。感謝して感謝して感謝しまくるのだ。
 ありがたい。ありがたい。ありがたい。
 すべてはあることが難しいのだからまさに有り難いのである。日常は奇跡の連続とも言える。
 何かに問題があって苦情をつけなければならない時には申し立てるべきだとは思うが、基本的な姿勢として感謝して足るを知る者は最強なのだ。そんな人になれたらと思う。
 一緒にそういう人になりましょう。なれますよ。きっとなれます。大丈夫です。

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