責任

いろいろエッセイ
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 わたしたちは日々、責任と共に生きている。と書くと少しばかり堅苦しくなってしまうのだけれど、何のことはない。わたしたちの生活というものは責任によって秩序が保たれているのである。
 たとえばスーパーの店頭に並べられている商品。みなきっちりと消費・賞味期限内のものだけが並べられている。ここでこれらの期限が過ぎている商品が並べられていたら問題になるだろう。けれども、そういったことはなくきっちりと期限内のものだけが置かれている。
 それから飲食店の皿洗いの仕事。彼らはきっちりと仕事をしてくれる。洗い終わった食器はみなピカピカで汚れは何もついていない。
 みんなが病気になった時に治してくれるお医者さん。お医者さんもきっちりと自分の医学的な知識を駆使して患者の治療にあたってくれる。そうして、みんなが元気になる。
 もしも、スーパーの店員が期限切れの商品を並べたり、飲食店の皿洗いの人が手を抜いてお皿に汚れがついたままにしていたり、医者が適当に仕事をして診断を誤ったり間違った処置をしたりしたら、もう世界はメチャメチャになってしまう。秩序が乱れてしまうのは言うまでもないことだろう。わたしたちはこれらのことがきちんとなされているのが当たり前のことで、何ら特別なことだとは思っていない。でも、みんながきちんとやってくれなかったら困るのである。逆に言えば、みんながきちんとやってくれているから世界は何の支障もなく回ることができるのだ。
 今の話は仕事の話だけれど、わたしにも仕事をしていないなりに責任がある。それは極端な話だが、自分の心身の健康を害するような破滅的な行動を取らないこと。それから他者に危害を加えないこと、である。これらは責任と言うよりは義務と言った方がいいかもしれない。しかし、この義務を守る責任がわたしにはあるのだから、責任と言って差し支えないだろうと思う。わたしにはこういったことの他にも責任を負っていることがある。それは猫の世話である。母と一緒に共同で猫の世話をしているのだ。だからわたしには猫の世話をする責任があると言える。
 責任という言葉で他にも思い浮かぶのはコロナワクチンである。以前の記事に(相当前の記事だけれど)祖父にコロナワクチンを打つか打たないかわたしが責任を持って考えて決めたことがあった。それで結果的に、決めることができたのだけれども、打つのか打たないのか、そのことを言いたいのではなくて、わたしが責任を負ったということを言いたいのだ。ワクチンを打つか打たないか。それは本当は祖父が自分で決めた方がいいことなのだけれど、祖父にはそれだけの考える力がない。だから、家族が考えて方針を決めなければならなかったのだ。その方針を決めるとき、わたしにものすごい重圧がかかった。わたしの決定したことで最悪の場合、祖父が死ぬかもしれない。死ぬまで行かなくても重篤な被害を被るかもしれない。そう思うとなかなか決められなかったのだ。打っても打たなくてもどちらにしても、悪い結果になってしまう可能性は残る。だとしたらリスクベネフィットでメリットとリスクを天秤にかけて判断していくしかない。考えた。うだうだ考えた。で、決めた。その選択は本当に苦渋の決断であったため、今でもその選択は正しかったと思っている。人間、考えたり悩むことも必要なのだ。もしも祖父に悪い結果が訪れたとしてもわたしの選択に悔いはなく、これがベストな選択であったという自負は揺らがないと思う。本当に考えに考えて、祖父にはどちらがいいのだろうと真剣に考えたのだから、たとえ悪い結果になったとしても後悔はない。これを誰かに丸投げして決めてもらっていたら悪い結果になった時にその人に責任を取れと言うことだろう。お前のせいで祖父は死んだのだから責任を取れと詰め寄ることだろう。だから、良かったのだ。ワクチンを打つかどうか悩んで悩んで決めることができて良かったのだ。
 最後に最近よく耳にする「自己責任論」について書きたいと思う。貧困とか格差の問題が取り上げられる時、決まって自己責任という言葉が取り上げられるのだけれど、わたしは貧困についてはすべてが自己責任だとは思えない。やはり生まれた家の生活レベルに大きく影響されると思う。貧しい家で生活していくのがやっとで塾などにも行けない子どもと、一方、裕福な家庭で生活が豊かで余裕があり、塾はおろか家庭教師もついている。習い事も好きなだけやれている。学校はもちろん有名私立の一貫校みたいな二人の子どもが大学受験したらそりゃあ裕福な家庭の方が断然有利なのは明白だろう。たしかに貧しい家庭であっても東大に受かるような子どももいることはいるけれど、そういう子どもよりも高所得の家庭の子どもの合格割合の方が圧倒的に高いのだから、これは明らかに裕福な家の子どもの方が有利である。そして、高学歴→高所得→その子どもが高学歴→高所得→(続く)と高所得の再生産をしていくのである。
 勉強しなかったからいい学校に入れなくて、いい就職もできない。だから自己責任だという論調には少々無理がある。万人が全く同じ所得で同じような環境で、という前提が同じ場合に勉強しなかった子どもがいい学校に入れなくて自己責任だ、ということならまだ納得できる。けれども、そうではないのだ。家ごとに所得にも差があり、家庭環境も大きく異なっている。それを全部自己責任というもっともらしい言葉で扱うのは雑ではないかと思う。
 仕事の責任、コロナワクチン打つか打たないかの責任、そして最後に貧困の自己責任論についていろいろ書いてきた。これを読んでいただければ分かる通り、わたしたちの生活には責任が常にある。そして、責任の所在を争ったり、責任を果たすことを相手に要求したり、とだいたい問題には責任がつきまとう。だからこそ、わたしは自分の責任はしっかりと果たしたいと思うし、責任がしっかりと守られている世の中であってほしいと思う。この文章を通してあなたが責任について改めて考える機会となりましたなら幸いである。わたしたちの生活は責任と共にある。

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