キリスト教が幻想だったとしても

 わたしが精神的に不調な時、決まって思うことがある。それはキリスト教が幻想ではないか、ということである。
 そんなことないよ。絶対そんなことない。神様は絶対におられるし、イエスさまは神様の右の座につかれてわたしたちを見守ってくださっているし、福音書に書かれているイエスさまの奇跡、そして復活、昇天は事実だし、聖霊も確実におられるし、牧師だって神様の召命が本当にあって牧師になったのだし、日曜日の礼拝ではイエスさまが共にいてくださっている。だから、そんなことないよ。絶対にそんなことないから。
 分かっている。それをわたしは信じているし、疑うこともほとんどない。けれど、調子が悪い時になると、フッと「全部嘘じゃないか」と思ってしまうのだ。
 これは破滅的な懐疑である。今まで自分が歩んできた信仰生活を全部ぶち壊すような懐疑である。けれども思ってしまう時がある。そう考えてしまう時がある。これは本当のことだから正直に告白しなければならない。
 こう考える人はわたしだけではないようだ。現にあの有名な晴佐久神父もこのことに神学校に入ってからぶつかったとのことである。キリスト教のすべてをぶち壊すこの懐疑に。
 では、晴佐久神父はこの問題をどのようにして解決したのか。その話を晴佐久神父の口からたしかネット動画だったろう。聞いた時にはわたし自身救われたような思いがした。晴佐久神父はたしかこんなことを言っていた。
 キリスト教が共同幻想だったとしてもいいじゃないか。その共同幻想によってわたしたちがこれだけ幸せに生きることができているのだから。たとえキリスト教が嘘だったとしても作り話だったとしても、人々に希望を与え、慰め、励ましてきたことは疑いようもない事実だ。だから、いいのだ。共同幻想なら共同幻想でいい。幸せな共同幻想なのだから。(晴佐久神父はたしかこんなことを言っていた。正確な引用ではないため不正確だが、内容はこのようなものであった。)
 つまり、キリスト教が共同幻想ではないことを証明することは不可能なのだ。どんなに言葉を尽くしても共同幻想でないと断定することはできない。共同幻想である可能性を完全に排除することはできないのである。でも、ここで、ここが重要なのだが、晴佐久神父は開き直るのである。共同幻想だったとしてもいいじゃないか、と。これはものすごい説得力があると思う。人々が集団で幻想に騙されていたとしても、それで幸せになっているのだから別にいいじゃないか、という論法なのだ。
 幸せな共同幻想。集団幻想。だが、ここで一歩話を進めて、逆にキリスト教が共同幻想かもしれない、ということは幻想などではなくて事実であり真実だという可能性も同時に持っているのである。「かもしれない」ということは真実であるかもしれない、ということでもある。
 もし神様がおられなくて、イエスさまの言行録も作り話で、全部キリスト教が嘘だとしてわたしに何か困ることがあるだろうかと考えるなら「特にない」と答えるだろう。(まぁ、強いて言うならキリスト教の活動に費やした時間が無駄だったということになりそうだが、その活動によって幸福を感じていたのだから決して無駄ではない。)だが、もしもその逆が真で、キリスト教が本当のことだった場合、共同幻想だと思って信じなかったとしたらそれこそ大きな損失を被ることになる。何しろその場合、キリスト教で言っていることは事実であり真理であるのだから。だから、キリスト教が教えている通りに、地獄と天国があるし、最後の審判もあるし、永遠の生命もある。となったらそれこそ本当に困る事態となるだろう。(信じていなかったとしても神様は慈愛にあふれるお方だから何とかしてくださるだろうとは思うのだが。)
 つまり、信じたもののキリスト教が嘘だった場合には困らないが、信じなかったもののそれが本当だった場合には困るのだ。だから、損得勘定から言っても信じた方がお得なのである。(こういうこと言うと敬虔な信徒の方に怒られそうだが。)
 ともかく、キリスト教が共同幻想かどうかはっきりとしたことは生きている間には分からないだろう。おそらく最後の審判はわたしの死後に行われる。いや、最後の審判まで待たなくても死後にキリスト教が嘘だったかどうかということが分かるのではないか、というようにも思う。
 キリスト教が真か偽のどちらなのか。わたしは本当のことであってほしいと思うし、そう信じている。でも、少なくともわたしはキリスト教から多大な恩恵を受けて幸せになっている。それだけで、それだけでたとえ嘘であっとしても素晴らしい最良の嘘だったということになるのではないかと思う。共同幻想だったとしたら無神論の主張するごとく無に還るだけだ。でも、何もこわくない。無に還るということはもちろんわたしの意識は消滅しているだろうし、それはそれで悪くないだろう。キリスト教が嘘でないことを願いつつ希望を持って信仰していきたい。そして、嘘じゃないかと迫られても晴佐久神父のように答えて、この素晴らしい嘘かもしれないキリスト教を生涯を通して信じていけたらと思う次第なのである。
 幻想は幻想でも人をこの上なく幸せにする幻想だったら悪くない。むしろ、いいものだ。もしかしたらキリスト教は共同幻想なのかもしれない。けれど、それでも構わない。幻想であってもそれが多くの人によって心から信じられる時、無意味だと切り捨てることができるのだろうか。無意味ではない。きっと意味はある。たとえ幻想だったとしても。

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