血を吐いて入院している牧師のために祈ってください

キリスト教エッセイ
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 ただいまの室温28.7℃。暑いと言えば暑いし、大丈夫だと言えば大丈夫。そんな中途半端な温度。九月に入ったというのに何だか蒸し暑い昨今。絶対、というかおそらく地球が温暖化している。わたしが小さい頃の9月というのはもっと涼しくてひんやりとしていた。が、暑い、ような気がしてきた。文明の利器であるエアコンを入れようか。
 さて、重大ニュースというか、最近驚いたことがある。なんて冷静に言っていていいのか分からないのだけれど、牧師が血を吐いたらしい。わたしが行かなくなって久しい教会の牧師が喀血したらしいのだ。で、今、入院しているらしくて、そのため先週の礼拝は牧師不在の信徒礼拝だったとのこと。母がそのことを教えてくれた。この血を吐いた、というショッキングな出来事。それはそれなりにショッキングでもちろん驚きはした。でも、そういうことがあってもおかしくないな、とその話を聞いた時思った。というのは、この牧師、すごく頑張り屋さんなのだ。頑張り屋さんなんて言ったら本人は怒りそうだけれど、本当頑張り屋さんだと思う。ものすごい努力家でたくさん勉強しているし、決して妥協したり手を抜いたりしない。だからこそ、信徒に対しても、なあなあな態度では接しない。厳格とまではいかないにしても、礼拝中に携帯の着信音が鳴ったりするのはすごく嫌がってよく注意もしていたし、早く礼拝堂に来たのに後ろの方に座ったりすると前に座るように言ったりもしていた。そして、教会というのは礼拝を捧げる場所であり、その目的のために集っている共同体なのだということをしきりに強調していた。だから、礼拝にほとんど出席せずにみんなでお話をする集会にしか参加しない人に対して苦言を呈していたし、そういう意味で信徒に対して最低限度のマナーだったりモラルは要求した。さらに説教は本当に直球の真剣勝負といった感じで、命を懸けているような気迫さえ感じられた。内容もとても重厚でまさに料理で言うならフルコースみたいな、そんな感じだった(ちなみに、わたしはこの気迫あふれる説教をだんだん負担に感じるようになり、さらに上昇志向のようなそんな内容についていけなくなった。さらに取り上げる内容がやたらと深刻な社会問題だったり歴史的な問題だったりするので聞いていて平安というよりは気持ちをかき乱されるように感じたのだった)。
 そんな牧師が血を吐いた。わたしが勝手に推測するには、過労とか心労とか生まれつきの持病がそれらによって悪化したとか、そういうことではないかと思う。母が言うには、牧師はいつも忙しそうだったとのことで、何かに追われているようだったらしい。何でも自分で抱え込んでしまう頑張り屋の真面目な牧師。きっとそんな牧師に対して「休みなさい」って神様が言われているんだろうなって思う。
 人間、どこまで頑張ったらいいかと言えば、少なくとも血を吐くまで頑張らなくてもいいよな。頑張らなさすぎても気持ちがたるんで停滞してしまうけれど、何もを血を吐くまで頑張る必要はない。
 わたしが最近決めたことでこんなことがある。それは知的な活動は4時間くらいにしておこうということ。わたしも頑張る癖が抜けなくてついつい無理をしてしまう(血を吐くまで頑張ったことはないけれど)。で、次の日に疲労のあまり起きれない、なんてこともたまにある。だから、決めた。4時間にしよう、と。まぁ、ちょい時間がオーバーして5時間近くになってしまうこともあるかもしれないけれど、それでも知的な活動をするのはそれくらにしておこうって思ったんだ。これは牧師が血を吐いたという話を聞いてなおのこと強く思ったこと。
 母はこの牧師の件について教えてくれた時にこんなことをわたしに言った。「健康って有り難いね」と。そうだ、そうなのだ。健康って有り難いのだ。というか、健康でなければ何もできない。どんなにお金やモノや時間があっても健康でなかったら寝ていることしかできない。有り余るお金に大量の楽しむためのモノ。そして、自由に使える時間。でも、健康がなければそれらはまったく意味をなさない。
 わたしは今年の9月に40歳になる。思えば、今日に至るまでの間にいろいろなものをやめてきた。抗不安薬やその他たくさんの精神科で処方されてきた薬(減薬してきたのだ)。お酒にコーヒーに砂糖にお茶類(カフェイン飲料全般)、肉に卵に魚に乳製品に蜂蜜。ってすごいストイックじゃない? もう修行僧のような、そんな殺気さえ漂うやめぶり。でも、これらたくさんのものをやめてきて、わたしはより健康的になってきたように思う。思い出すとこの中でも抗不安薬とコーヒーと砂糖はすごく難しかったな。減らすと体がそれを求め始めるんだ。体がくれー、くれーって要求してくる。それらが供給されている状態が当たり前なために、供給されないとものすごく渇望する。
 ちなみに、精神科のお薬を飲んでいる人は自分で勝手に減薬しちゃダメだからね。くれぐれも言っておきますけど。減らしたい場合には主治医と相談しながら少しずつ減らしていってくださいね。
 話を戻して、やめたことによって見えてきたこともある。何かね、すごく体の中がきれいになっているんだ。浄化されている、というか無駄な不純物がないというか。だから、精神状態がすごくクリアで穏やかでもちろんキリキリ、カリカリなんてしないし、もしかしたら健常者と呼ばれる普通の人よりも普段の精神状態がいいんじゃないかって思ったりもする。
 そんなわたしだからだろう。煩悩というか、この世の思い煩いに絡め取られているような牧師の説教がどうも合わなくなってしまった。説教を聞いていて心がかき乱されるように感じるようになった。これは牧師が変わったというよりは、きっとわたしが変わってきたということなんだろうな。わたしが変わってきて受け付けなくなった。おそらく、そういうことなんだろう。
 牧師が血を吐いて入院している、とのことでわたしは祈った。もちろん、自分自身にではなくて神様に。この時ばかりはクリスチャンらしく(?)神様に牧師を回復させてくださいと祈りを捧げたんだ。でも、わたしはもうこの牧師の説教を聞くために礼拝に行くことはおそらくないだろう。でも、祈った。教会に行くとか行かないとか、もう教会員ではないんだからとか、そんな器の小さいことを言っていても仕方がない。少なくともわたしはこの牧師と同じ教会で時を過ごし、月日を重ねた。だから、赤の他人ではない。だから、祈った。わたしにできることは祈ること。それでいいんじゃないかと思いたいし、そうしたことはすべて神様がご存知であられる。だから、これでいい。
 と、ストップウォッチが61分という時間を刻んでいる。書き始めて1時間くらいが経った。今日はこれくらいで切り上げようか。まだまだ書きたい気もするけれど。でも、無理はしない。というか、持続可能な生活を目指していきたいな。じゃあ、今日はこのあたりで。
 最後に、皆さんにお願いがあります。教会の牧師のために祈ってください。祈りはきっと神様が叶えてくれますから。わたしからのお願いです。「神様、牧師を回復させてください」。



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