母の受洗の日が近付いてきて

キリスト教エッセイ
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 もう明日から12月。月日が流れるのは本当に早いものだなぁとしみじみ思う。12月ってまだまだ先のことだと思っていたのに、それがもう明日。で、クリスマスまで1ヶ月を切った。今年のクリスマス礼拝では以前にもこのブログに書いたけれど、母の洗礼式が行われるのだ。
 そうなれば、ぼちぼち準備の方も始まる。というわけで、当日どんな服装で行くのかだいたい決まったわたしだけれど、母の方がまだどの洋服を着ていくのか確定していないのだ。というのも、洋服屋さんが母がいいなと思った服が在庫がなく、別の店舗などを含めて探してもらうということになり、今はその連絡待ちというところ。早く連絡来ないかなぁとそのことで話題は持ちきりではないけれど、それでもその服の在庫があることを願っているところなのだ。
 わたしはと言うと、当日はジャージで参ります。というのは嘘で、ビシっとスーツで行こうかなって思っているんだ。そのためにアマゾンで十字架の模様が入っているネクタイを新調したのです。もうやる気満々。とこんなことを書くと、この文章を読んだ母がプレッシャーを感じてしまうからあまりやる気とかもう楽しみで仕方がないとか書かないようにしておこうと思う。
 少し前の日曜日、教会である方が母にこんな言葉をかけてくれた。それは「ありのままでいいんですよ」という優しいあたたかい言葉だ。がぜん、洗礼を受けるともなれば張り切ってきりきり舞いをして、もう胸が張り裂けそう~なんていう精神状態になる人も結構いることだろうと思う。しかし、その方は母に「ありのままでいいんですよ」と語りかけるのだ。ありのまま。もうありのままのあなたを神様は受け入れてくださっている。だから、何か特別なことをするとか、何か張り切って気合いを入れるとか、そういうことは必要ないんだってことのようなのだ。
 考えてみれば、人間どんなに頑張ったところでできることなんてたかが知れている。有限で限界の上限が限りなく低い人間が死に物狂いで何かをやっても、神様の足下にも及ばない。言ってみれば、何もできない赤子のようなわたしたちなのだ。いろいろな人生経験を積み重ねてくると、自分は何かできるんじゃないかとか、自分って結構すごいじゃん、とか思ってしまうものだけれど、神様の前に虚心坦懐に立つ時には自分という存在は丸裸で何も持たない無力な存在でしかないのだ。というか、何かすごい人にならなくても、なれなくても、そんな欠けだらけのわたしを、このわたしを神様は受精した瞬間から、いや、受精するずっと前から愛してくださっているのだ。何もわたしは人間の努力とか行いを全否定するつもりはない。わたしが言いたいのは、神様の前で謙虚、謙遜であった方がいいのではないか、ということ。
 教派によっては厳しいところだと洗礼を受けるまでに聖書を一通り通読しておくように、とか洗礼を受けるにあたって自分の信仰告白的な文章を書きなさい、とかいろいろ注文をつけられることもあるようだ。まぁ、それはいろいろあるだろうから何もそれらが間違っているとか言うつもりはない。たしかに聖書を一通り読んでおく。自分の受洗にあたって文章を書く。それらは意義のあることだし、やっておいた方がいいことではあるのだろう。しかし、それをやらなくても、やれなくても、神様はそんな小さなことに目くじら立てて咎めるような了見の狭いお方ではないのだとわたしは思う。もっと言うなら、別にそうしたことをやったからと言って、神様に何かメリットがあるわけでもない。万物の支配者であり、すべてをお持ちの方。すべての富すらお持ちの方。そんな神様にとって一人の人間が聖書を通読したとか、何か文章を書いたとか、そんなこと何のメリットにもならない。もちろん、神様がそれを喜ばれた、嬉しいと思ってくださったということ自体がメリットなのだと言ってしまえば言えないこともないけれど。
 洗礼。わたしが洗礼を受け、そして母もこれから受ける。何という恵みなのだろうか。母の洗礼式が迫っているというこのこと自体が少しばかりわたしにとってはまだ現実感がないというか、実感がわかないというか。あの母が洗礼をついに受けるのか、とほおづえつきながらぼんやりと考えているような、そんな感じなのだ。嬉しいのだけれど、その実感がわいてこない感じ。嬉しい100%だけ、とも少しばかり違うような感じ。嬉しくないわけではもちろんない。ただ、実感がまだわかないんだ。
 母が洗礼を受けることが決まり、それが教会中に知れ渡ってからというもの、教会の人たちの態度が変わってきた、と嬉しそうに母は言う。それもそうだろう。何せ、仲間が増えるのだ。母もうちの教会の仲間入りをするのだから、そこに仲間意識が芽生えてくるのは当然だ。今まではお客様だった。教会員の星さんのお母さん。そんな感じだった。それがこれからは母も立派な教会員。立派な正真正銘のクリスチャン。社会的にもキリスト教徒となる。何だかまだ信じられない。嬉しいんだけれど、変化がありすぎてそれにまだ頭がついていけてない感じ、と言うのが一番しっくりくる表現だろうか。
 今年のクリスマス礼拝、母の洗礼式には精神保健福祉士のWさんも駆けつけてくださる。もうこれでだいたい準備は万端。あとは母の洋服がどうにかなれば、まぁ、大丈夫でしょう。あ、わたしのダウンジャケットをクリーニングに出さなければ。まだ汚れたままだったんだよな。
 クリスマスにどんな感動の物語が紡ぎ出されるのかとても楽しみだ。でも、忘れてはならないのは「ありのままでいいんですよ」とうこと。でも、だからと言って普段のジャージで行くのはちょっとねぇ~。スーツはありのままではないのでは? いやはや、そういう堅苦しいことは言わないの。スーツでいいじゃない。スーツで上等だからさ。

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