アシュタンガヨガのことをいろいろと考えながら

ヨガ星のアシュタンガヨガ日記
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 この3、4日間、寝ても覚めてもヨガのことばかり考えていたような気がする。今日なんて夢にまで出てきたくらい。こ、これは、わたしの中で第三次か四次くらいのヨガブームが到来したようだ。
 少し前にヨガ教室へ行くかどうか迷っているという話を書いたかと思う。そして、それからも、うだうだ考え続けているわたしなのだ。が、答えは出ない。答えは出るとか出ないとかいうものではなくて、出すものなんだというのは重々承知してはいる。ヨガの雑誌やヨガの本をひたすら読みながら、自分の方向性だったり、進むべき道なり何なりと考えているわたしだったのだ。
 で、いろいろ読んでいて分かったのはヨガって宗教的なものなんだな、ということ。ヨガが宗教なのかと言えば、それは少しばかり違うのだけれど、宗教的という言葉だったらピッタリと合う。簡単に言うと、ヨガというのは幸せな人生を送るためのツールであり、精神的な変容を求めていくとてもスピリチュアルなものなんだ。
 当たり前だけれど、人はみんな幸せになりたくて、幸せにこの人生を生きていくことができたらと思っている。だから、いろいろなことをやるんだ。それは宗教も然りで、とにかく何かをやることによって幸せになれるのならみんな時間もお金も労力も惜しまないでそれにつぎ込む。
 わたしの場合は、キリスト教の道で一生やっていきたいと一時期は思ったのだけれどその思いは続かなかった。他に魅力的なものが現れてかすむとまではいかなくても、何だかそっちの方がいいように思えてきてしまって教会を去った。
 そして、次に現れたのがヨガだった。何よりもヨガはわたしに精神的な安らぎをもたらしてくれた。そのヨガのポーズを取ることによって体は強くなり、心もしなやかに折れにくくなった。だから、ヨガをもっと深めていきたい。そう思った。けれど、ヨガのことを学んでいくに従って、ヨガはダイエットのためのものでも、美容のためのものでもなくて悟りを目指すための道なんだということに気が付いた。が、そうなるとここで躊躇してしまう。フィットネスとしてのヨガであれば、自分がきれいになったりカッコ良くなれば、そして健康的になれればそれでいい。でも、精神修養としてのヨガはそんなものではないし、そんなんではダメなようなのだ。ってそれこそヨガ的な考え方から逸脱しているのかもしれない。ヨガというものは人を縛り上げるものではなくて、自由に解き放つもの。だとしたら、どういうことかと言うと、ヨガの中でもハードなものに挑戦しようかどうかわたし自身が迷っているということで(アシュタンガヨガにね)、そのハードなヨガの教義のようなあり方に同意できるかどうか、というところが微妙なのだ。
 あ、でも今思ったんだけれど、ヨガとどう付き合っていくかというのはわたしに委ねられていることであって、たしかに厳しい修行をすればそれはいいかもしれないけれど、そこまでヨガに人生を捧げることはできない、というあり方でももちろんいいのだ。何か真面目なわたしは何でもやるんだったらある程度のところまではやりたいと欲張ってしまう。まだ、そのヨガの教室へ一度も行ってさえもいないのに、どの程度までものにするとか、極めるだとか、捕らぬ狸の皮算用をしている。まず今のわたしのやるべきこと、いや、「べき」っていうのは良くないからやりたいからやるでいいと思うのだけれど、やることはそのヨガ教室の扉を叩いてみること。まずはそれからなのだろう。それから続けるなりやめるなり好きにすればいいだけの話であって、これは野球をやりたいと思っている少年がまだやってもいないのに、プロ野球だの大リーグだのと想像を膨らませているような、そんな実質の伴わないものでしかないのだ。だから、今のわたしにヨガとは何ぞやなんて語る資格はないし(だってまだヨガ歴1年ちょっとでそれもDVDと公民館のヨガ教室だけだろ?)、高いレベルに到達した人々をそれは意味があるとかないとか批判したり評価したりする資格もない。
 でも、そう言いながらもやっぱり分からないのは、平安とか幸せは頑張らないと手に入らないものなのか、ということ。頑張って頑張ってそのアシュタンガヨガが言うところの99%の実践をした者にしか手に入らないのか? まぁ、頑張って平安や幸せを手に入れようと必死でやっている人は「頑張らないと本当の平安なり幸せは手に入らないよ」と言うことだろう。言うまでもなく、そう言わなければ、自分が今までに頑張ってきたことや今頑張っていることを否定することになってしまうから。でも、わたしが問うているのは、そういう自己正当化云々ではなくて、本当のところ、つまり事実としてはどうなの、ということだ。事実として頑張った人にしか本当のご褒美が与えられないのか、それとも頑張るかどうかなんて関係なくご褒美は与えられるのか。
 これはキリスト教でも大いに意見が分かれるところで、頑張った人(善行などをして正しく生きた人)しか救われないと言う人たちもいる一方で、いや、そんな条件なしですべての人が救われるんだという人たちもいて、いまだに決着がついていない。
 ヨガにおいても頑張らなくていい。ありのままで無理しなくてもいいという考え方がある。そして、それと対照的にいや頑張らないとダメなんだという考え方もある。
 もちろん頑張らなくても頑張った人と同じ成果だったり結果が得られて待っているのであれば、誰も頑張ろうとはしないだろう。いや、そうではなくて成果とか結果なんて関係なくただ頑張ることそれ自体に価値があるんだ、と見る向きもできないことはない。頑張った先に何か得られるものがあるかどうかと言えば、それはおまけのようなものでしかなくて、それよりも頑張って一生懸命にやること自体が目的なんだ、という考え方。要するに筋トレしていること自体が、目的がどうこうではなくて好きなんだというすごくストイックな考え方だ。
 でも、ヨガというものは目的がある。それは悟りを得ること。少なくともアシュタンガヨガの場合にはそうだ。だから、一生懸命ハードなヨガをやって上っていこうとする。
 結局思うのは物事というのはやってみないと分からないということだ。どんなにアシュタンガヨガの高名な先生がこのヨガをやっていくとこういう風に変わっていくとか、こういうものが得られるとか言って先取りして教えてくれても、それは実際に自分でやってみない限り分からない。リンゴはかじってみなければおいしいかどうか分からない。どんな味がするかも分からない。もしかしたらそのリンゴを死に物狂いで必死の思いでようやくかじれたとしても、それはまずい味、あるいはおいしいかどうかと言えばどちらでもない微妙な味だったなんてこともないとは言い切れない。でも、そのリンゴの味を知りたいのであれば、ただそのリンゴをかじろうとしてみる。そして、かじってからうまいだのまずいだのと言えばいい。
 人生は実験。だから、実験して失敗しても成功目指してやっていけばいい。が、踏ん切りが付きそうで付かない優柔不断なわたし。こんな自分にわたし自身がいらつき始めている。はっきりせい、わたし。



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