RYT200(ヨガの資格)の再来

ヨガ
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 今日、ヨガ教室へ行ってきた。そして、当たり前だけれどヨガをやってきた。それから、教室を終えて先生と話をした。先生はこんなことを言った。「どこかヨガ教室とか探していませんか?」と。わたしは最近は探していなかったけれど、なぜか探していたことがあったからだったのか、それともその時、先生にいい顔をしたかったからなのか、「静岡あたりで探しています」みたいなことを言った。すると、先生は、この教室とこの教室がいいと思いますよ、みたいに教えてくれる。わたしはどちらもネットを通して知ってはいて、「あ、それはネットで見ました」と答える。話は弾んでいき、なぜか話題はRYT200へとなった。なぜだろう? なぜだか分からないけれど、わたしの口から「RYT200」という単語がポロリとこぼれ落ちて、そのことについて話をしていた。和やかな感じでその後も会話は弾んでいき、話はさらにそのRYT200のことへと深く及んでいった。先生は嬉しそうだった。自分の生徒さんがヨガの先生になるための資格について興味を持っていて、そのことを自分でも調べている。ヨガの道をさらに深めようとしている。最後に先生は「背中を押せたらと思います」といったようなことを言って、無理にとか、どうしてもなどとはもちろん言わなかったけれど、わたしにその資格を取ることをおだやかに勧める感じで、そしてわたしと先生は別れた。
 わたしは分からない。そのRYT200というヨガの先生としての資格をどうしても取りたいのかどうか、ということが。自分自身に聞いてみれば、憧れのようなものはある。たしかにある。でも、それをどうしてもやりたいかどうかと言えば微妙なのだ。
 わたしはこの1年4ヶ月あまり、ヨガをやってきた。その間に新しい発見があり、成長もしてきた。体は丈夫になり、メンタルもとても良くなり、人間的にもかなり成長できたように思う。ヨガをやっている時、パワーヨガなんかをDVDでやっていると体というか、アーサナと呼ばれるポーズを取るのに必死で心の静寂などを感じている余裕はない。けれど、最後のシャバアーサナと呼ばれる屍のポーズをしている時の何とも言えない穏やかで静かなまさに静寂の時が筆舌に尽くしがたいほどの安らぎなのだ。
 わたしは本当にヨガをもっと今以上に深めていきたいのだろうか。が、深めたところでどうするのだ、という思いが頭をもたげてくる。どちらにしろ、わたしを含めて人間は死ぬだけではないのか。でも、逆に言えば、人間いずれは死ぬのだから、やりたいことをやっておこうではないかとも言えなくもない。どうせ死ぬのだから何をやったって無駄だと言うのなら、すべてのことは無駄だ。何をやったって死ぬ。だから、無駄。だとしたら、わたしがこうして生きているのも無駄だし、ご飯を食べているのも、本を読んでいるのも、すべてすべて意味がなく無駄だということになる。たしかに無駄なのかもしれない。意味などなく価値もないのかもしれない。でも、わたしは自分が生きていることを意味のあることだと思いたいし、そう信じていたい。
 というか、何が怖いのだろうか? 何を怖れているのだろうか? 失敗すること? うまくいかないかもしれないこと? お金を失うかもしれないこと? 恥をかくかもしれないこと? 怖い。たしかに怖い。言うまでもなく、わたしは失敗することを極度に怖れているのかもしれない。すべて成功させたい。失敗はできることならしたくない。そんな思いがあるようだ。でも、考えてみれば、人生のすべてのことについて失敗してはならないなんていうことはない。失敗したっていい。失敗してその失敗を踏まえて次に生かしていけばいいじゃないか。わたしは臆病になっているのかもしれない。何か、新しいことに、それも大きなことに挑戦しようとするたびにあの大学を中退したことを思い出すんだ。まるであの出来事が古傷のように痛み出す。それからわたしは失敗しないように、失敗しないようにとまるで石橋を叩くかのような人生の歩き方をしてきたように思う。
 これはわたしにとってのチャレンジの時なのだろうか? 挑戦の時であり、挑む時なのだろうか。分からない。ただ、ヨガの先生の言葉に踊らされているだけでしかないのか? それとも、わたしがそのヨガの資格を取りたいと心から思っているのか? それも情熱と熱い気持ちを持って。
 ヨガを深めたい? 何のために? それは平安を得たいから。より安らかな平安を求めていきたい。まるで湖面に波風一つなく静かな時が流れているかのような、そんな平安。そして、平安ということをも突き抜けてそれを平安だとも何だともみなさないような、本当に自由な境地へと至れたら。平安。そして、自由。要するにわたしはとらわれのない心穏やかな平安な境地へと至りたいということなのだろう。さらには何ものにも縛られない自由を手に入れたい。
 ヨガとか瞑想以外のこと。読書だったりお料理だったり、その他いろいろなことをすればそれなりには楽しく面白い。でも、わたしが求めているのはそういうことなんだろうか。この世的な面白さを求めているのだろうか。いや、もしかしたらそうではなくて静けさを求めているんじゃないか。平安を本当は渇望していて、そういった気持ちが日常的な雑事で見えなくなってしまっている。わたしがキリスト教の洗礼を受けたのも平和だったり平安だったり心の安らぎを求めてのことだったようにも思える。そう、平安がほしかった。平安を手に入れたかった。すべては平安のために、だったんだ。今、はっきりとした。本を読んだりして知的に高まっていくのももちろん面白いし楽しいけれど、それ以上に平安な心持ちになれている時というものにわたしは恍惚とする。いや、恍惚と言うよりは、本当にスーッと頭の中が無になって余計なものが何もなくなって、ただひたすらフラットになっているような状態。
 人は死ぬ。どうせ死ぬ。それだったら好きなように生きてみようか。冒険もしてみようか。そのRYT200の資格を取るための講習を受けて、もしうまくいかなかったとして失うものは何かと言えば、50万円近くのお金とそのために費やした時間と労力だけ。恥もかいてしまうかもしれないから、見栄や自尊心なども失うものに含まれるかもしれない。
 さっきまでたまたまラジオを聞いていたらいくつか心に響く言葉があった。「死ぬ以外のことはかすり傷」「自分で決めて選択したことが正解」。そんなわたしを鼓舞するかのような言葉がやたらと意識の中へと飛び込んでくる。わたしはおそらく誰かに背中を押してほしいのだろう。やってみなよ。やってごらんよ。誰かからそう言ってほしいのだろう。ヨガの先生はそんな風には言わなかったけれど、それに近いようなことをわたしに言ってくれた。朝の9時から始まり夕方の6時に終わるRYT200の講習。それが週1でおよそ半年間続く。できるんじゃないかが3割くらい。無理なんじゃないかが7割くらい。それが今のわたしの正直なところだ。
 ヨガの先生はわたしにこんなことも言ってくれた。「星さんにはこうだと思ったことをやり通す力があります」「不必要なものをより見極められるようになってきたんじゃないですか」「無駄なものがそぎ落とされてきたように思います」等々。どれもわたしをほめすぎなんじゃないかというばかりの言葉でわたしってそんなにできる人間じゃないのにとさえ思ってしまうくらいだ。でも、先生の目にはそう見えるようなのだ。まぁ、かっこいい所しか見せていないようなものだから、みたいなことも影響しているのかもしれない。とは言えども、先生だって「あなたの背中を押せたらと思う」なんてことはてんで話にもならなくてダメそうな人には言わないだろう。何にせよ、世界的なヨガの資格なのだ。それなりの達成だったり到達が求められる。それに対してこの人だったらできるんじゃないか。よりヨガを深めることができるんじゃないか。そう思うからこその期待でありプッシュなのだ、と思う。でも、やるのは先生ではなく、わたしなのだ。やるのはわたし。だから、もっと自分自身にヨガを通してだったり、瞑想を通して向き合って、静かに問いかける必要がある。「わたしは本当にそれをやりたいのか?」と。そうして問いかけ続ければ今日明日で答えは出なくともいつかは、それも近いうちには答えが出ることだろう。
 他の人に「やった方がいいのかな?」と聞けば何か言ってはくれるだろう。でも、やるのはわたし。そのわたしが聞いてみた人ではない。だから、わたし自身に聞いてみる。わたしの心の奥の奥から聞こえてくる、わたしの心の声を。その声を聞くためには心が鎮まっていなければならない。だから、静けさを求めながら自分自身に聞いていく。キリスト教的にこれを解釈するなら、わたしの中には聖霊が住まわれていて神の宮なのだ。そして、それがもしかしたらヨガ哲学でいうところの真我なのかもしれないとも思う(って違う?)。たとえ神様から聞こうとしてもそれを受け入れるか斥けるかどうかはわたし次第(なんて言ってしまっていいのか?)。だから、最後は自分に聞くしかない。
 まだ自分の思いがぼんやりとしている。だから自分に聞いていけたらと思っている。
 わたしは吃音だから。わたしは精神障害だから。わたしはもう40だから。そんな言い訳というか理由を並べ立てて、自分の限界というものを決めてしまっているだけなのかもしれないとも今日、ヨガの先生と話をしている時に思った。本当はもっともっと可能性にあふれている将来というか未来有望な人間なのかもしれない(って過大評価しすぎかなぁ?)。わたしは吃音だからRYT200は無理なんじゃないか、みたいないことを先生に言ったら先生はこうしたことを言って教えてくれた。さらには、8時間とか9時間とかそんな長時間やれるかどうか不安だ、みたいなことも言ったら「調子が悪くなったら、調子が悪くなったと言って休ませてもらえばいいじゃないですか」と言う。仮に、その講習中に精神障害の発作みたいな不調が出てしまったらもう仕方がない。休むなり、帰るなりするしかない。けれど、一つ言えることは死ぬことはないだろう、ということ。死ぬことはない。どんなに最悪の事態に陥ろうともRYT200の講習で死ぬことはない。交通事故に巻き込まれるとか電車が脱線するとか、そんな本当に万が一のことでも起こらない限りは死なないだろう。
 ともかく、やるかやらないかゆっくりと考えていきたい。というか、不安に思っていることを全部その講習先のヨガスクールに電話するなり何なりして聞いてみるのもいいかもしれない。不安をどんどん、あれが不安だ、これが不安だと雪だるまのように大きくしているのではなくて、ズバリ質問してみる。そうしたらすんなり、あっさりと解消してしまうかもしれない。その上で、物事はやってみなければ分からないのだからと割り切ってチャレンジしてみる、なんていうのもいいかも。
 忘れていた頃にRYT200。人生どうなっていくのか分からないなぁ。だからこそ、面白い。わたしはそう思うけどな。



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