ヨガを通して今を生きる

ヨガ
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 ヨガをやっていると思う。何て贅沢な時間なんだろう、と。自分の心と体にじっくりと向き合える時間が持てる幸せを思うのだ。
 ゆっくりと体を動かして、ゆっくりと呼吸をする。体の隅々にまでエネルギーが行き渡っていくようで、とても気持ちがいい。
 いつもDVDを見ながらヨガをやっているんだけれど、ヨガを終えてDVDを停止するとチラっとお昼のワイドショーとか夕方の情報番組が目に入る。すると、特にお昼のワイドショーなんかだとコメンテーターが怒っている。目をつり上げて不機嫌そうな表情と口調でまくし立てている。一方、わたしはと言えば「何、怒ってるんですか? エヘヘ」とまるで別世界から降りてきたようなすがすがしい精神状態でいる。あぁ、心の平安というやつを手に入れつつあるんだなぁとコメンテーターを見て気付かされるのだ。まぁ、それも無理はない。ワイドショーのコメンテーターは戦場にいるのだ。やるかやられるかのドンパチの世界にいるのだ。だから、まぁこれは仕方がない。
 コメンテーターが怒れば怒るほど、不機嫌になればなるほどわたしの快調さ、快活さは際立って「あぁ、幸せかもな」と思うのだ。
 わたしたちは「今」を生きている。当たり前のことだ。今さら言われなくたって分かるよ。それもごもっとも。けれど、わたしたちは今しか生きることができない。今、今、今の今しか生きることができない。だとしたら、その今をどれだけ充実させるか。生かすか。実り豊かなものにするか。そこにかかっているような気がするんだ。そういう意味で、ヨガというのはとにかくそれをやっている間は自分の状態に集中するわけだから、とても濃い充実した時間を過ごせる。今に集中すると言ってもいい。とにかく、日々の喧噪から離れて自分の心と体の移り変わりに意識を向ける。うむ、実に濃い時間。
 ヨガをやるようになって気付いたことは、今までは「今」を生きていたようでどこか上の空だっかもな、ということだ。つまり、今に集中していなかったということだ。もちろん、全部が全部上の空だったわけではない。集中していた時間もあったし、充実していた時間ももちろんあった。ただ、ここまでヨガのように何かに集中したことってなかったんじゃないかって気がするのだ。
 今、わたしはPomeraでこの文章を書いている。集中している。いい文章を書きたいものだと少し緊張している。ヨガをやるようになってから、この集中する状態が前よりも続けられるようになってきたように思う。注意力散漫ではなくて、一点にしっかりと向き合えるようになってきたのである。
 わたしはヨガ教室に行っているわけではないからまだまだ本格的にやっているわけではないものの、ヨガに出会って変えられつつある。気持ちがさらに安定してきたし、体力もついてきたし、肉体的にもたくましくなってきた。つまり、人生がさらに上向きになってきたのだ。
 と言いながらも日々、小さなことですぐイラつくのは日常茶飯時。あれだけ調子が良かったのにガタ落ちな日もある。でも、そこから立て直すまでの時間がヨガをやるようになってからというもの、短くなってきたように思う。人生、アップダウンがあるのは当たり前。大切なのはいかに平均して安定していられるか。
 落ちる。持ち直す。落ちる。また持ち直す。落ちる。またまた持ち直す。落ちては上げ、落ちては上げを絶えず繰り返す。と、自分がどのパターンで落ちるかということが自分自身を注意深く観察すると見えてくる。わたしの場合にはポルノとパソコンだから、それらを日常的に避けるようにして、体調を整えるようにする。と言えども誘惑に負けてポルノを見てしまったり、やめとけばいいのにパソコンを長時間やってしまうことも少なくなってきたものの、時々ある。でも、人生はたとえわたしがポルノを見ようとも長時間パソコンをやろうとも続いていく。だから、気を取り直してまた歩き出す。そうすると、また元の快調、快活さが再び戻ってくる。
 ヨガという自分自身を整えるものに出会えたことを神様に感謝しつつ、揺れては戻し、揺れては戻しを絶えず繰り返しながら人生を進んでいこうと思う。ヨガはキリスト教から見たら異教的なものなのかもしれない。でも、たとえ異質なものであったとしても、神様はわたしに幸せな人生を歩んでほしいと思われているはずだ。だから、神様を第一にすることはもちろんわきまえつつも、このヨガという神様からの恵みを享受していきたい。
 40近くになってヨガと出会いますます充実してきた。このように人生何が起こるか分からないから、人生って本当面白いね。神に感謝。

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