自分のことをしょぼいと思うすべての人へ

いろいろエッセイ
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 8時26分 メモ帳から
 何だ、わたしはもう既に持っているじゃないか。
 足りない、足りない。自分が持っていないたくさんのものを持っているあの人がうらやましい。ではなくて、今、自分が持っているものに目を向けてみる。そして改めてそれらを見つめ直してみる。そうするとそれらも決して捨てたものではないことが分かってきて見えてくる。成功していて「自分のようにやればあなたも成功できてうまくいきますよ」とある意味幸せアピールしてくる人は放っておけばいい。その人はその人、わたしはわたしなのだから受け流すくらいでいい。
 むしろ、そうした外部ではなくて自分自身に目を向ける。すると案外いろいろといいものを持っていることに気付かされる。自分の蔵書を見て思った。いい本、たくさん持ってるじゃん。自分が住んでいる家を見ても、まぁそれなりのいい家だ。こうして当たり前で空気のようになっていた自分を取り囲んでいる物を見てみると、満更悪くはない。たしかに何かの道で成功している人と比べたら質素で特段良いわけではないかもしれない。でもわたしには、わたしの持っている物だったり環境だったりがちゃんとある。それも決して悪くはないものが。
 誰か比べて勝っているとか負けているということではなくて、自分自身だったり、自分の持っている物だったり、置かれている環境を冷静に見つめ直してみる。そうすると新たな発見がある。
 誰かと比べたら足りないと思えてくるかもしれない。自分がすごくみすぼらしく見えてくるかもしれない。でも、大事なことは自分自身がそれでいいと思えるかどうかということだけ。自分で自分のことを良しと思えなければ、たとえどんなに何かを手に入れたとしても幸せにはなれない。
 自分が持っていないものではなくて持っているものに目を向ける。そして、それらを大切にする。それが足るを知ることへとつながっていくのだろう。
 足るを知ることができない人は貪欲という重い病にかかっている。わたしはそうではなくて自由に軽やかに生きたい。
 今朝には精神的な不調だったけれど持ち直せて良かった。


 やはり、というか、自分が持っているものではなくて持っていないものに目を向けてしまうと苦しくなる。心が乱されてそれがほしくてほしくて焦がれそうになる。それはほしくてたまらないものなのだから、それを手に入れるが難しかったり、どう逆立ちしても無理だと分かれば、途端に激しい欲求不満になる。人は人、わたしはわたし、と割り切れればいい。でも、やっぱりうらやましいものはうらやましい。人が自分が持っていないものを手にしていて、それを手にしながら幸せそうに生きているのを見てしまうとやりきれない気持ちになる。
 誰かをうらやましいとか妬んでしまう時というのは大抵、自分が持っていないものに視線がいっている時だ。そんな時は、自分が持っているものは顧みようとなんかするはずもなくて、ただただ持っていないそのまだ手にしていないもののことばかりを考えている。
 何かを手に入れる。持っていないものをほしいと思う。それは人間にとって当たり前の欲求だと思う。だから、どんな人でも自然に抱く自然な気持ちだ。でも、それが極端になって、ほしい、ほしい、自分が持っていないあれがほしい、とばかりなってしまうと問題というか支障が生じてくる。次から次にほしいと思うものを手当たり次第に買う。そして、買ったはいいものの、それらを手にすると手にした時には高揚感だったり満足感を与えてくれるのだけれど、それが長続きせずに、また今度は自分が持っていないまた別のほしいもののことを考えている。となれば、家が自分が買ったもので溢れてしまう。言うまでもない。ほしいものを次から次に買って手に入れることを繰り返しているのだから当然だ。こうなると、何かを手に入れるというその行為の快感に依存することになる。俗に言う、買い物依存症のような状態になっている。
 お金が無限というか、無尽蔵にあり、ほしいものをひたすら買い続けても問題がなくいつまでもそれを続けることができて、しかもそれで最高に幸せならそれでいいのかもしれない。でも、本当にそれが幸せなのだろうか。何だか寂しい生き方をしているように思えてならない。これが物ならまだしも、人間関係だとしたら男漁りとか女漁りと言っていいような状況だろうし、まるで乾電池か何かのように人間をとっかえひっかえ交換していては、心の安らぎはおそらく得られまい。家だってそう。毎度恒例のように毎週引っ越しをしているなんていこうことにもなるだろうし、どこまで行っても満たされることはない。
 新しい何かを手に入れた時の高揚感というのはたしかにある。でも、それがすぐに切れてしまうとしたら、次々に新しいものを手に入れなければならない。そして、手に入れ続けなければならないのだ。それは何か食べ物を口の中へ入れたらすぐに吐き捨てて、また別の食べものを口の中へと入れる、といったことをひたすら繰り返すことと似ている。昔、中国かどこだったかは忘れてしまったけれど、そんな王様がいたらしい。その王様はほとんどの食べものを口に含んで吐き出したらしい。飲み込んで胃へと送り込んでしまってはお腹がふくれてしまって、味わい続けることができない。だから、味を感じるだけで吐き出す。だから、何か物なんかを手に入れて、手に入れてはもうそれで放っておく。ただ家の中にあるだけ、というのはこの王様のように捨ててはいないけれど、同じようなことをやっているのではないか。物が増え続ければ空間には限界があるのだから、いずれ捨てるなり売るなりしなければならない(収納スペースが無尽蔵にあるということならどんなにたくさんでも置いておけるが)。う~ん、何だかなぁ。これって幸せなのかなぁ。ってそんなわけないだろ、と思う。要するに、どんなに新しいものを手に入れてもその人は満足できないのだ。
 一方、こうした極端な感じではなくて、ほしいものはほどほどに手に入れながらも、あるものを大切にして、手に入れたものも長く使って大事に扱う。そんな人の幸福感、満足感というのは高いのではないかと思う。いわば、新しく手に入れたものをまるでスルメか何かのようにじわじわ~、じわじわ~っとおいしいなぁと思える。かめばかむほど味わいが出てくる。ドカンと高揚してそれでお終いではなくて、その手に入れたものがじわじわ効いている。効き続けているのだ。となれば、そんなにお金を使わなくても済むし、環境にだってやさしい。大量消費で大量廃棄ではなくて、少量消費で少量廃棄。地球だって喜んでくれる。
 ここまでは物とかの話だったけれど、学歴や社会的地位についても同じように考えることができそうだ。誰かが東大卒で一流企業に勤めていて、ものすごくいい暮らしをしているとしよう。一方、自分は高卒で精神障害もあって働くことができずに障害年金だけで細々と生活保護と同じくらいの最低限度の生活をしている。これを一般常識的な物の見方でとらえるなら、自分のことを多くの人々はかわいそうとか大変ですね、と憐れみのまなざしで眺めることだろう。でも、本当にそうなのだろうか。高卒の精神障害ありの障害年金暮らしが24時間365日かわいそうな暮らしをしていて不幸でみじめかと言えば、そんなことはないはずだ。確かにお金はあまりないかもしれないけれど、絶対貧困と呼ばれる餓死ししてもおかしくないレベルの貧困とは違って、お金がまったくないわけでもないし、生活の中に楽しみだってそれなりに見つけている。というか、一日あたり1ドルくらいで暮らしている極貧の人だって100%不幸かと言えばそんなことはない。どんなに苦しい人だって束の間の休息のような苦痛が和らぐ瞬間というものは一日のうちに少しはあるはずだ。
 たしかに東大卒の一流企業のその人は持っている。それも高いステータスを持っている。でも、それと対極にある人だってそこまで高いステータスはないけれど、それでもその人なりのものを持っているじゃないか。だから、学歴や社会的な地位についても、自分が持っていないものではなくて持っているものを見た方がいいと思う。自分が持っているものを見てみると、案外というか、それなりにいいものを持っていることに気付かされる。高卒で精神障害があって無職で障害年金暮らし、ということは高校は卒業できているじゃないか。精神障害があるということは良くとらえるなら、自分が死なないために自分自身が精神障害というものを発病させて必死でこの世界でやっていこうとしたということじゃないか(うつ病がその最たる例で自分自身を守ろうとしたがゆえに本能的に活動レベルを下げたと見ることができる)。もしも精神的な病気を発病させていなかったら、あのまま無理をして突っ走って今頃死んでいたんじゃないか? 無職ということは職がなく、働かなくてもやっていけているということなんだから本当にありがたいこと。第三世界(貧しいアフリカとかアジアの国々)では生活保護とか障害年金なんてそんな恵まれたものはないから、生き延びていくためには何が何でもその日の糧を得るために働かなければならない。それを思えば、本当に恵まれているじゃないか。
 このように自分が持っていないものに目を向けると、羨望が生まれて、それがこじれると妬みとなり不平不満の大合唱になってしまう。でも、持っているものに目を向けると、世界は現実が何も変わっていないにもかかわらず輝きを取り戻し始める。そして、感謝が自然と生まれてくる。そうなれば、不平不満なんかとはおさらばできる。
 とは言っても、うらやましいと思うのは本能のようなものだから完全になくすことは無理なのかもしれない。誰かが自分以上に恵まれていてキラキラしていればうらやましくなり、自分がしょぼく思えてくる。でも、このしょぼいと思えてならない自分だってそれなりに持つものは持っている。しょぼいというのは絶対的なものではない。誰かと比べたからこそ、しょぼいとか何だという考えが出てくるのだ。だからこそ、そのしょぼいと思ってしまう自分自身を見つめ直す。そして、それが本当にしょぼくてみすぼらしいだけなのかと再検討してみれば必ずしもそうとは言えないことに気付かされる。恵まれているハイスペックな誰かと比べたらわたしなんかと思うのは当たり前なのかもしれない。でも、そのハイスペックなその人だって自分のことをまたそれよりもすごい別の人と比べてしょぼいとか足りないとか思っているはずだ。
 となれば、自分が持っているものを見た方がいい。持っていないものではなくて。そうすれば快活に機嫌良く感謝しながら生きていける。人生をどうせ生きるなら、足りない、足りない、もっともっとと不満を抱えながら生きるよりも、わたしは足りていて恵まれていると感謝できる方がいい。結局、コップに半分水が入っている時に、半分しか入っていないと思うか、半分も入っていると思うか、ということなのだと思う。わたしの場合、半分どころか四分の一くらいしか入っていないかもしれない(笑)。あるいはあるいは何も入っていないかもしれない。でも、それでも何も持っていないわけではなくてコップという器は持っている。自分はコップを持っている。そして、コップを持つことのできる健康な手がある。何てありがたいんだ。そんな風に思いながら人生を送って行けたらいいなと思う。これがわたしからあなたへの、そして何よりもわたしへのエールだ。また、気持ちが滅入ってきたらこの文章を読み返そうと思う。この文章を通して何かあなたにとって発見があったらわたしは嬉しい。長文、読んでくださりありがとうございました。



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