星のアシュタンガヨガ日記 第12回「赤くないレッドクラスに初参加&海の波を見ながら意味とか価値についてぐだぐだ考えまして」

星のアシュタンガヨガ日記
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 どうも、星です。今日もシャラへ行き練習してきました。で、初挑戦をしてきたのです。それはレッドクラスへの参加。
 いやね、少し前から先生から「レッドクラスに参加してください」って言われていたのだけれど、なかなか踏ん切りがつかなくて延ばし延ばしになってしまっていて、ようやく決意して「えいやっ」と参加しようと予約を入れたものの、右腕の付け根を痛めたものだから泣く泣く見送っていたのだ。そして、今日始めてレッドクラスというやつに参加したわけ。
 レッドクラスのレッドって何かと言うと、英語のリードの過去分詞形。リード、レッド、レッド。それでレッドなんだ(本当は英語で綴れたらいいのだけれど、何せ英語とは縁遠いので勘弁を)。だから、このレッドクラスというのはリードされるクラスのことで、先生の号令と共にそこに集った練習生が一斉に同じヨガのポーズをしていく、というもの。だから、赤いクラスじゃないのよ。念のために言っておくけど。
 わたしはと言えば、シルシャアサナ(ヘッドスタンド)とマリーチアサナのDができないものの、一応、アシュタンガヨガのプライマリーシリーズのハーフまでは一通りできる感じだから(つまり、ハーフプライマリー)レッドクラスへの参加資格ありというわけなのだ。
 正直言うと、今日のレッドクラスは少し不安だった。でも、ケン・ハラクマ先生のプライマリーシリーズのDVDを使って自宅で模擬レッドクラスのようなものをやったことはあったからまぁ何とかなるだろうくらいの気持ちではいた。
 レッドクラスの何が大変かと言うと、待ってはくれないこと。普段のマイソールクラスではそれが自主練のようなものだから、疲れたら一息ついたり、リズムが崩れたら少し間を置いて立て直すことができる。しかし、このレッドクラスはもたついていると、どんどん進んでいってしまうから、一瞬たりとも気が抜けないのだ。
 先生の号令のままに進んでいくレッドクラス。実際やってみてどうだったかと言えば、上出来だったと思う。先生や他の練習生の人からも終わった後、「ちゃんとできていたよ」みたいなことを言ってもらえたし、少なくとも全くついていけなくて途中で座り込んでしまったりなんていうことにはならなかった。
 クラスが終わった後、先生が「どうでしたか?」とわたしに聞いてくれて少しばかり先生と話をした。何でもレッドクラスというのは先生が同じペースで吸って吐いてと指示を出すわけだから、その時に自分の呼吸が足りなくなったとしたら、それはちゃんと深い呼吸ができていないということで、その点に気付くためというのが一点。そして、さらにはマイソールクラスとレッドクラス、その両方で同じように練習ができるようになるのが理想とのこと。マイソールクラス用とレッドクラス用という風に自分自身のヨガを分けないということが大切とのことだった。何年も練習している人でもこれは難しい課題なのだけれどみたいなことも先生は教えてくれた。あと、レッドクラスというのは従うことを学ぶためのクラスでもあって、マイソールクラスが自主性を学ぶのに対して、レッドクラスにはそうした役割があるとのことだった。
 今日のレッドクラスはフルプライマリーのクラスだったから、ハーフまでの人は途中、フルまでできる人たちのヨガを座って見学していることになる。その時思ったのが、この人たちすごいんじゃないか、ということ。フィニッシングを除くハーフまでのポーズが終わって見ていた時に繰り広げられる難しいポーズの数々。いわば、彼女たちは肉体派の女性たちで、肩とかまるで格闘技でもやっているような感じだ。ムエタイとか、そんな感じだろうか。わたしよりもたくましい彼女たちを見ながら(筋肉の付き方と骨の発達の仕方のレベルが違う)、このすごい人たちの群れに加わっているということで、わたしも普通の人から見たらすごい人なのかもしれないな、と思ったりもした。まだまだヨガのポーズは未熟そのもので熟達へはまだまだ遠い。10年目までは初心者と呼ばれるアシュタンガヨガの世界に飛び込んでわたしは何とか現在4ヶ月。まだまだ、ひよっこ。でも、今だってハーフプライマリーまで進んで来れたわけだし、ムキムキな他の練習生の女性たちにはかなわないものの、それでもわたしもすごくなってきているのではないかな。実際、ケン・ハラクマ先生のプライマリーシリーズのDVDを見て(たしかハーフプライマリーの一連の流れを見ていたと思う)、「こんなんできるの人間じゃないよ」と思ったわたしなのだ。が、その前にも書いたけれど、その人間とは思えないやつを普通にわたしはやれているのだから、その進歩向上には目を見張るものがある。上には上がいるけれど、わたしだって少しはできるのではないか、な~んて謙虚さが足りませんね。ダメよ、まだまだだよね。
 少しずつやっていく。一歩ずつやっていく。それを続けていったらきっとものすごい高いところにたどり着いている。エベレストもキリマンジャロも、どんなに高い山だって一歩ずつ登っていく。その一歩一歩が積み重なって、とてつもなく高いところに立つことができるんだ。
 と言いながらも人はいずれは死ぬ。だから、この生涯で成し遂げたことは水泡に帰す、だけなのかもしれない。どんなに高い山に登って、あるいは精神的な修養を重ねていって高い境地に到達できたとしても、死ぬことによってそのたどり着いた場所が跡形もなく崩れ去ってしまうだけなのかもしれない。登ってたどり着いた山そのものが砕け散ってしまい、一気に谷底へと突き落とされる。もしかしたら身の毛がよだつけれども、それが実相なのかもしれない。けれど、人は何もしないではいられない。必ずじっとしていると何かをしたくなる。「わたしは50年間ひたすら寝ていたかったので何もしないで寝ていました」なんていう達人にはお目にかかったことがない。必ず何かをやりたくなる。それが人間。だとしたら、それが何になるとか、それが残るとか残らないとか、そんなことはどうでもいいからやってみようではないか。
 ちなみに、今ふと思うのだけれど、わたしが生きているのって無駄なのかもしれないな、ってね。急にネガティブモードで「どうした?」って感じではある。けれど、究極的にはわたしの人生には意味などないのかもしれない。ただ、波が起こった後にできる泡(あぶく)のようなものかもしれないと思ったりもする。
 意味も価値もこの世にはない。だとしたら何を拠りべにして生きていったらいいのか。というか、拠りべもないのかもしれない。キリスト教もインド思想も壮大なフィクションでしかないのかもしれない。だったらそれでもいい。ただ、生きていく。どうして? 何でだろうね。答えなどなく、意味も価値もなく、ただここにいるからいる。それでいいのだとわたしは思う。そして、寿命が尽きて死ぬ時には死ぬ。ただそれだけのこと。
 と何だかんだ暗い話をしたけれど、それでもお腹はすく。そしてお腹が一杯になってしばらくすれば動きたくなる。夜になれば眠くなるし、魅力的な人を見れば物にしたいとか思って性的な欲求はわいてくるし、それが満たされればまたお腹がすいてくる。それでいいのかもしれない。何も意味だの価値だの自己実現だのと頭が良さそうなことを考えなくても、もう自分の中にそういう生きたいという本能が渦巻いている。それだけでいい。それだけで。
 帰りに電車を途中下車して今日も海を見てきた。昨日と同じ場所に行ってみたら、今日の海はまた昨日とは違っていた。日差しが眩しいくらいだったけれど、何だかその海を見たらほっとした。わたしは泡(あぶく)のような存在かもしないと海の波を見ていると思う。海の波が打ち寄せる時にできる泡。だとしたら、そんなに偉くなれなくても別にいいじゃないですか。成功できなくても、何かを成し遂げられなくても、仮に今のような調子が続いていくとしても。
 わたしは泡だ。だから意味がない、と考えるか、泡だから(そして泡として今ここにいることは揺らがないという意味で)意味があると考えるか。あるいは、ただそこに泡があるだけで意味もそんなものは人間の拵え物でしかないとクールに考えるか。どちらにしても泡はある。それだけは事実。だったらそれでいいよ。それでいい。それだけでいい。それで上等だと思うけどな。

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