海から「人間、死ぬ時は死ぬのだから大丈夫」と言ってもらえたような気がした

いろいろエッセイヨガ
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 今日、海を見に出掛けた。海を見たと言ってしまえばそれで終わるこの旅も、今日やっとかなったのだ。
 わたしの希望。それは砂浜のある海岸へ行くことだった。今までも海を見たいと出掛けはしたものの、港だったことしかなくて、打ち寄せる波を間近で見ることはかなわなかった。
 その時にメモ帳に書き記した文章があるのでここに引用したい。

 波。何をなしたか、なさなかったとかそんなことは関係なくただ波として現れて、そして海の水へと戻っていく。
 人も万物も波でしかなく、一瞬立ち現れたかと思うと消えてまた万物の源へと帰っていく。それでいい。それでいいのかもしれない。
 いい暮らしをしたいとか、仕事をしているとかいないなんてことはどうでもいい。
 一つの波として現れて、現れたかと思うと消えていくでいい。
 それ以上でもそれ以下でもない。そうだ、波なんだ。

 このようにわたしが海を、それも海の波を見たかったのは森羅万象の万物が波であるということを実感を持って感じたかったからに他ならない。実際、海の波は打ち寄せたかと思うともうすぐにまた海の水へと戻っている。そして、引いては寄せて、引いては寄せてと新しい波がまたやって来ては去り、やってきては去り、と絶えず続いていく。
 わたしはそれを見て、人間の人生というか生涯もそのようなものなのだろうと痛感させられた。どんなにお金を稼いでも、高い社会的地位や立場を得ても、どんなにこの世で成功しても、すべては過ぎ去っていく。そして、時が経てばたとえそれらを得たとしても手放さなければならなくなる。何か波を見ていたら、その人間の営みだったり、成し遂げたことなんかが海の波と共に生じる水のあぶくのようで、あぁ、そういうことだったんだなと合点が行った。わたしは仏教者が言うように、この世界がすべて幻だとまでは言わない。けれども、この世界はいわば波であって、泡のようなものだということは認めざるをえない。一瞬生じる波、あるいは泡。そのために人は人生をかけて挑もうとする。それが空しくないですか、と冷笑するつもりはない。けれど、何かすべてが泡のように思えてきた。そしてさらには全部が波なんだから、もっと言えば泡のようなものなのだから、どんなにこの人生で失敗しようが何をしようが、それらも泡でしかない。だから、大丈夫というメッセージを海から受け取ったように思った。どんなに最悪のことが起こったとしても、死んでまた源へと帰って行くだけ。そう思ったらすごく気持ちが楽になってきた。
 わたしは波。あなたも波。誰かも波。猫も犬も木も草も空もコンクリートも石もガラスのコップも波。仮に立ち現れていて、しばらくしたら消えていく波でしかない。波、そう、つまりは泡のようなもの。だから、どんなに堅固に見えるものであっても堅固なんかではない。始まりがあれば終わりがあるように、形あるものはいつかは朽ち果てていき古びていき消滅する。消滅して何らかの物質としてこの宇宙の中で循環し続ける。
 わたしがこだわっていたもの。手放したくはないと思っていたもの。それらをゆっくりと手放して行けたらという気持ちになってきた。いっぺんには難しいかもしれない。だから、ゆっくりと一つずつ。一つずつ手放していき、自由な境地へと近付いていきたい。過度なばかりの健康志向も肉体美の追求も精神的な安定をひたすら求めることも手放せたらと思う。というか、人は死ぬ時にはどんなに自分自身を大切に扱っていようが何だろが死ぬ。何かそれでいいような気がしてきた。別に長生きすることに最上の幸福があるわけではない。長生きだってほどほどにできればそれで良し。仙人のような人や聖者が自分の健康に執着しないことからも、この健やかでありたいという過度な欲求はそのことにしがみ付いている、というわけ。
 それにしても海を見てそこに佇んでいると頭がスーっとスッキリしてくる。自然の力の凄まじさを肌で感じた今回の小旅行だった。
 わたしの中であった変化。それはどんなであろうとしかるべき時には死ぬのだから大丈夫という安心感だった。ただわたしはこの大いなる力、大いなる流れに身を委ねればいい。あとは何とかなる。最悪、死ぬかもしれないけれど別にそれだってそれだけのことのような気がしてきた。4、50分、海の近くで過ごしただけなのに、この変化は凄まじいと自分でも思う。
 海が気付かせてくれたことを胸に物事にこだわったり執着せずにやっていけたらと思えた今回の小旅行。これからも海にはちょくちょく行きたい。そして、自分のガチガチなこだわりや執着を海に解きほぐしてもらえたらと思う。

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