祖母の入所先が決まった

いろいろエッセイ
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 この1ヶ月というもの、祖母に退院許可が下りたため、転院または入所先を母とわたしで必死に探していた。とは言えどもわたしたちは素人である。だから、今祖母が入院している病院の医療ソーシャルワーカーにおもに探してもらい、その中で候補に挙がった病院などへ申し込みに出掛けたりした。
 しかし、なかなか転院先、入所先となる受け皿が見つからない。なぜかと言えば、祖母の場合、状態が特殊だからである。
 まず、祖母には輸血が必要である。だから、輸血ができるところを探さなければならない。となると候補はかなり限定されてくる。これが輸血を必要としないのであれば、かなりの数の中から選べるのだが、とにもかくにも輸血しなければならないのでわがままは言っていられない。その限られた中から選ばなければならない。そして、金銭的な問題である。高齢者の介護施設というのは、まさにピンからキリまであって、お金を出せばどこまでもいい所へ入れるのだが、お金がないとそうとも言っていられないのだ。わたしたち親子の所持金は限られていて、無尽蔵には祖母のために出すことができない。つまり、この二点。輸血ができて、しかも高くないところ。この条件を満たすところをわたしたちは探していたのだ。
 というわけでまず第一に候補に挙がったのが輸血ができる療養型病院である。二つの病院が候補に挙がった。一つは自宅まで来てくれてスタッフと話ができたが、もう一つはその病院まで行かねばならなかった。まず、前者。断られた。自宅で話をしている時には転院時の当日の話まで出たくらいだったのに、判定会議で受け入れが認められなかった。なぜか。理由は祖母が身体的には元気だったからだ。身体的って血液の病気で余命半年とか言われているのに、それでも元気なの? 祖母はたしかに血液の病気だけれど、自分で起き上がれるし、自分で歩けるし、自分で食事もできるし、とすこぶる体の機能的な面においては元気なのである。だから、要介護かどうかと自立度を聞かれたら、要支援2か行って要介護1くらいなのである。それに対して療養型病院という所は原則として寝たきりとか重度の医療的な処置が必要とか、本当に病んでいる重度の人を優先的に受け入れるところだと言うのだ。そこに歩ける祖母である。だから判定会議で却下されたのだ。まぁ、考えてみればもっともな話ではある。そして、後者。後者も断られた。理由は同じである。けれど、この病院は片道30分も電車を乗り継いで行ったのだ。それだけに断られた時には母とわたし、共にとても落胆した。病院のワーカーが大丈夫だみたいな空気を漂わせていただけに落胆の度は大きかったことを記憶している。
 で、最後に残された選択肢。それは医療型介護付き高齢者向け住宅である。ただ、これを選ぶと月4万か6万くらいさきに落とされた療養型病院よりも高くなる。神様はわたしたち親子になかなか過酷な試練を与えられるものだと思った。でも、逆に言うなら4万か6万くらい払ってでも祖母のためにやってあげなさい、ということなのだろうかと神様の御心を想像してみたりしたのだった。あまり好きではない人のために自分の大切なお金を使う。それは母もわたしも同じことで、なかなかの試練である。しかし、イエスさまだって正しい人を救うために来られたのではなくて、どうしようもないろくでなしな人々を救うために来られたのだ。そして、正しくない人のために十字架で血を流され死なれたのだ。イエスさまとわたしたちを比較するのはおこがましい話だけれど、つまりしょうもないどうしようもない人のために一肌脱ぎなさい、ということではないかと思えてきたのだ。わたしは祖母を尊敬できない。カレーを作って食べさせてあげたり、京都のお豆腐を取り寄せてあげたりしたけれど、だからと言って祖母のことが大好きだというわけでもない。どちらかと言えば、苦手でネガティブオーラ全開の祖母に嫌な気持ちにさせられてきたことが多く、わたしとしては微妙なところなのである。でも、そんな祖母のためにお金を使う。あまり使いたくはないけれど使う。それこそ、キリスト教的な発想でいうところの、両親を敬い大切にするということではないだろうかと思う。
 思い出してみれば、わたしは祖父母にはとても世話になってきたし、なっている。行く場所がないわたしを祖父母が二人で暮らすために買った家に置いてくれたし、光熱費も払ってくれたし、何とある時期は食費まで出してもらっていた。だから、お世話になりっぱなしなのだ。そこまで世話になったのだ。これからは恩返しをしようではないか。与えてもらったものをお返ししようではないか。
 で、その4万か6万くらい高くなる高齢者住宅に祖母が入居することが先日決まった。あとは必要な書類を書いて、来週には祖母を病院まで迎えに行ってその施設に入ってもらうだけだ。
 長かった。この1ヶ月本当に長かった。でも、神様は落ち着くべきところに落ち着かせてくださった。そして、お金をケチるわたしたち親子にそれではだめだとダメ出しをしてくださったのだ。神様からのダメ出し。そんなわけないじゃん。入れるところがなかっただけだよ。たしかにそういう唯物論的な思考もあることだろう。けれど、わたしは何かこの一連の出来事に神様の御手が働いてくださっていたように思えてならないのだ。逆にわたしたち親子にキリスト教的な信仰や思想や発想がなかったらもっと精神的に荒んでいたことだろう。「4万とか6万多く出すなんてやってらんない!!」と怒り心頭でキーキー言っていたことだろう。マルクスは宗教はアヘン(麻薬)だと言ったけれど、たしかにそういう側面もあるかもしれない。でも、そうではない。少なくともわたしたち親子は今回の出来事においてキリスト教に救われているし助けられている。そして、いい方向に進むことが出来て上々なのである。わたしたち親子が尊敬してやまない教会員のOさんもこのことを聞いたら心から喜んでくれるに違いない。にこやかな笑顔で「いいことをしたね」と言ってくれそうな気がする。Oさんは以前このブログでも取り上げた「感謝すれば愚痴は出てこない」という名言をわたしに教えてくれた聖人のような人物である。
 お金の使い方。そこにははっきりとその人の人柄が現れる。思想も現れるし、人間関係も現れるし、信念や信条のようなものももちろん顕わになる。だから、人を判断する時にはその人のお金の使い方を観察するのが一番いいと思う。的確だし、誤魔化しようがないからだ。そのお金の使い方が雑だったり、いい加減だったり、自分中心だったり、無駄遣いだったり、最悪の場合、誰かを傷つけるものだったらやっぱりそれは良くない。良くないお金の使い方をする人は良い人とは言えない。だから、自分のお金の使い方を今一度見つめ直すのもこの機会に良さそうだなぁと思ったりもする。
 祖母の入所先が決まりほっと一安心。神様に感謝しつつ、日々を大切にじっくりと味わいながら歩んでいきたい。そして、キャベツの前に佇む時間と祈りの時間を大切にしながら心の平安を神様に祈り求めていきたい。

 神様、わたしたち家族の健康をお守りください。アーメン。

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