星の平凡だけれど痛快な一日

いろいろエッセイヨガ
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 今朝の目覚めはあまりよろしくなかった。よろしくない? よろしくないとも。よろしくないの。何かもうこの文章だけで多くの人が、あ、これは自分に関係ないなと別のページへ移動することは必死だ。いかん、いかん。ここで必死に食い止めなければ。
 さて、今日は本当に長い長い一日、であるかのように感じられる。というのも、朝の4時半頃起きているから、一日が長いのだ。朝の4時っていうとまだ暗いのよ。でも、新聞はもうすでに来ていて……、って関係ないことにあんまり文字数を割かない。いかん、いかん。
 最近の定番となりつつあるのが、アシュタンガヨガの太陽礼拝。まだ、教室へは行っていないけれど、準備の意味も兼ねて始めたのだ。とは言えども、太陽礼拝Aを30回やるだけ。もちろん、太陽礼拝のBもあるのだけれど、とりあえず一番最初のAをやっとけばいいかなって思ってやってる。アシュタンガヨガの大御所のケン・ハラクマ先生だってビデオを見ながら独学でトレーニングしたのさ。でも、わたしにはそこまでの気概はないから、最初はやっぱり先生についてやってみようかと思っている。でも、あんまりできなさすぎるのもどうかなぁと思って、ビデオを見ながら見よう見まねでやっている。そんな感じ。
 太陽礼拝30回って言ってしまうと一言だけれど、これがなかなかきついのよ。アシュタンガヨガのやつのね。今までわたしはパワーヨガで有名な綿本彰先生の教えるところのそれをやってきたのだけれど、負荷というか強度の意味でもアシュタンガヨガの太陽礼拝の方がハードだと思う。ちなみに太陽礼拝ってね、ヨガの流派によって若干違うんだ。だいたい基本的な動きは同じなのだけれど、流派によって違う。綿本先生の教える太陽礼拝とケン・ハラクマ先生のとでは違うのはやっぱりベースにしているものが違うからなんだろうな。それに加えて、シヴァナンダヨガの太陽礼拝もまた違う。太陽礼拝っていろいろあるわけなのさ。
 で、今朝も太陽礼拝をやったのだけれど、いつもなら30回できるのに25回しかできなかった。何かヘロヘロになってしまって、これ以上やるとこれからの予定に支障をきたすことがありありだったから、25回でやむなく切り上げた。
 というのも、昨日、なかなか寝付けなかったんだ。何でだろう。まぁ、そういう日もあるさ。だって生き物なんですもの。毎日、快眠なんていうわけにはいかないのよ。でも、原因を考えてみると寝る2、3時間前くらいにPomeraで自分の過去のブログ記事をかなりたくさん読んだっけ。それから、昨日は朝の太陽礼拝30回はやったけれど、日中ほどんどインドアな生活をしてしまっていて歩いたりしていなかった。要するに運動不足だったのだろう。やっぱねぇ、こういったことが重なると地味に眠れなくなるわけよ。人間って動物なのね~、と自分が肉体的な存在であることを思い知らされた昨日の寝付きの悪さだった。でもね、眠れたことは眠れた。眠りは浅かったけれど眠れた。今の精神科の主治医の先生は2日眠れなかったら寝る前のお薬を出しましょう、という方針だから一晩眠れなくても大丈夫なのだと安心している。さすがに、一晩ほどんど眠れなくても、そうなれば次の日の日中に昼寝とかしているから、2日、3日と不眠不休でもない限り大丈夫なのだ。1日眠れなくても死ぬことはありません。そんな感じでどーんと構えている。付け加えると、わたしの場合、寝る前のお薬はないからありがたいなぁと感謝している次第なのです。
 今日は精神科の通院の日。2ヶ月に一度の通院日で、病院へ行くわけなのです。今まではタクシーに乗って行っていたんだけれど、わたしがありがたいことに元気になってきたものだから、歩いて病院まで行っている。だいたい歩いて30分くらい。そんなわけでタクシー代が往復で1200円とか1400円くらいするところを無料にできている。これって大きい。本当、大きい。タクシー→バス→徒歩。と進化を遂げている星なのであります。さてさて、さらなる進歩を、ってもうこれ以上は無理でしょう。わたしの統合失調症はおそらくというか、定説によれば死ぬまで付き合い続けるでしょうし、完治して通院の必要がなくなるなんてことはないと思う。だから、通院を続ける。でも、徒歩で行けるなんて何てありがたいんだろう。昔はタクシーに乗って行ってもしんどかったくらいなんだから。それが徒歩。いやはや、未来というものは予想できませんな。
 早朝の病院に着いたわたしは病院が開くまで待つ。来た時間が早いのだろう。わたしよりも早く来ている人はいなくて、まさに一番乗り。診察も1番。別にナンバーワンにならなくてもいいんだけれど、1番というのは待ち時間が少なくて実に心地いいんだ。
 で、診察。診察室で「どうでした?」と聞かれて、こうでしたということを手短に話す。所要時間3分以下。これだけだったらわたしでもできそう?、なんて不謹慎なことを言うのは良くないけれど、診察というのは必ずしもこういうことばかりではなくて、「調子が相変わらず悪いです」とか「悪くなりました」ということもあるから、ドクターにはやはり専門知識が求められる。やっぱり、というかわたしには逆立ちしても無理。というか、患者の診察を何時間もやるだけの心意気なんてわたしにはないからね。
 薬をもらってやることを終えたわたしは帰路へ。が、ふとわたしの好奇心がうずく。前から素通りしてスルーしていた和菓子屋さんに入ってみようと一大決心(?)をする。入る。いろいろお菓子が置いてある。そりゃあそうだ。和菓子屋さんなんだもの。店の人に「どういった商品が人気がありますか?」と聞いてみる。すると、これとこれがおすすめです、みたいなことを教えてくれる。この店はカステラに自信があるみたいだ(カステラというかカステラ生地ね)。が、もちろんこの店に入ったのは自分で食べるための分を買うためではない。好奇心を刺激されたことは刺激されたのだけれど、母へのおみやげを何か買いたかったのだ。母へのおみやげ、と。結局、どら焼きを買うことにした。どら焼き。たかがどら焼きだけれど、されどどら焼き。何とこの店のどら焼きは220円もするのだ。どら焼き1個に220円。高っ!! いつもスーパーでしかお買い物をしないわたしにとってはこの220円がとても高く感じられる。しかも、心なしか、と言うまでもなく明らかに小さい。220円もあれば今思えばリンゴ1個は買うことが出来る。バナナだったら2袋買える。キャベツだったら安い時であれば2玉は買えるし、納豆だったら4パックは買えてしまう。
 高いどら焼き~。でも、この値段設定には何かあるんじゃないかと思って(質が違うのだろうと思った)、せっかくだからと買ってみることにしたのだ。どら焼き1個買って店を後にするわたし。
 ちなみにこのどら焼き、母が言うにはものすごくおいしいらしくて、どら焼きの皮というか生地の部分が普通のものとは明らかに違ってものすごく格別なお味だったとのこと。値段ってやっぱりうまくついているわけね。高いのは高いだけの理由があるのね。
 とまぁ、ちょっと時系列が入り乱れたけれど、今はまだ病院から家までの帰り道の話。
 日常とは違う小さな冒険に味をしめたわたしはさらなる冒険をしてみることにした。何か甘いものばっかりなんだけれど、今度はいつもスルーし続けてきた、それもわたしがこの街に引っ越してきてからある一度も入ったことのないお店へ入ってみることにしたのだ。そこはどんな場所かと言うと、製餡所(せいあんじょ)。そう、あんこを作っている所。製餡所の看板には小売りという文字もあった。小売りということなら、個人のお客さんにも売ってくれるのではないか。が、もんのすご~く入りにくい空気が漂っている。全然ウェルカムじゃないわけよ。その看板もすごくシンプルで全然そそられる感じではないし、入り口も「入り口」というこれまたさらに入る気持ちをくじくようなシールが貼ってあるわけ。こ、これは入りにくい。が、ここは男は度胸よ。入ってしまえば何とかなる。何とかならなかったら逃げて帰ってくればいい。「すみませんでした」と逃亡してくればいい。
 入ってみた。カウンターというか、小さな八百屋さんみたいな感じのカウンターはあった。が、誰もいない。時間が早すぎたのかしら。というか、まだ10時前だし、早く来すぎてしまったのかもしれない。けれど、製餡所の中の機械が動いている音はする。中を覗いてみた。よく見たら人がいた。「すみませ~ん」と結構大きめな声で呼びかけてみる。が、これだけ大きな声で、普通だったら絶対聞こえているはずの大きさの声なのに、一瞬こちらをちらっと見たのか見ていないのか、ともかくその白い作業着を着たおじいさんはわたしに気付いてくれなかった。はっきり言って、もう帰ろうかと思った。もしかしたら、そのおじいさんはすごく気むずかしい餡の職人さんで作ることだけを仕事にしていて、売ったりすることはやらずに他の人に任せているのかもしれない。だから、こちらを見て見ぬふりをしているんだ。売るのは俺の仕事じゃね~ぞ、と。そんなことさえ思えてくる。
 が、とりあえずそこに突っ立っていればさすがにそのおじいさんもわたしの存在に気付いてくれるかもしれない。そんな思いもあったのでその場で立って待っていた。7、8分は待っていただろうか。
 と、その職人らしきおじいさんがわたしに気付いた。「おっ、お客だ」みたいな顔をしたのが忘れられない。
 わたしは機械の音がしていたことはしていたので、割合大きめの声で「こんにちは。つぶあんください!!」と言った。けれど、そのおじいさんは認知症なのか何なのか、わたしの言うことを理解できない。で、そこにさり気なく置いてあったホワイトボードを手に取ると「これに書いてほしい」と言う。何かその時にはそのおじいさんが何が理由でコミュニケーションが取れないのかはよく分からなかったけれど(家に帰ってから母にその話をしたら「耳が悪いんじゃないか」とのことでその可能性が高いだろうなと気付かされた)、わたしは言われた通り、「つぶあん1kg」と書いた。すると、何やら冷蔵庫みたいな場所からつぶあんを取り出すとそこからすくってビニール袋にそれを計って入れてくれた。そのカウンターには「つぶあん1kg 1000円」と書いてあったのでそれに従ったという形だ。お金を払ったわたしだったけれど、何かそのおじいさんと話がしたくなり、「ここは長くやっているんですか?」と質問してみた。けれど、そのおじいさんは、つぶあんは1kgで1000円だからということを繰り返すのみで会話にならない。まぁ、仕方がない。いろいろな人がいるのが世の中だからな、と思い製餡所をあとにしたのだった。
 家に着くとわたしは早速そのつぶあんを食べてみた。食べてみたら本当に驚いた。めちゃくちゃうまいじゃないか。もうこれは、うまいなんてもんじゃない。まさに最高級の職人技による作品だった。絶品とはこのことを言うためにある言葉なのだろう。全部が絶妙な完成度なんだ。もうこれ以上のものは無理だろうというくらいの完成度。さすがにもうかれこれわたしが引っ越してきたのが30数年前でその時からあったのだから、本当に餡一筋でここまでやってきたわけだ。もう凄まじい実力を見せつけられてわたしはこのつぶあんにノックアウトさせられた。
 今日の教訓としては、入ったことのないお店に入るのは勇気がいるけれど、その一歩を踏み出すことによってここまで豊かなものを得ることができるんだなぁということだった。
 何か終わりそうな予感がしますよね? まだ続きがあるのです。まだ終わりませんよ、星の一日は。長いですから。
 それからやったことはその製餡所のつぶあんがあまりにもおいしかったものだから感謝の手紙を書いた。「つぶあん、おいしかったです。絶品で最高でした。」っていう手紙を書いてポストに投函した。明後日には届くことだろう。喜んでくれるといいなぁ。
 さらにその後もスーパーへ家庭菜園をやるための土を買いに出掛けた。あ、一つ情けない話をすると、土を買うのが少し不安だったから母にも一緒に付いてきてもらったんだ。いやはや、恥ずかし。
 土は重いから手押し車をスーパーまで持って行った。で、この手押し車、生前の祖母が祖父に「お金をケチって安いのを買うから音がするじゃないの」と言うくらい、ガラガラガラガラ引いていく時に音がする代物なんだ。これって近所迷惑だよね、っていうくらい音がする(バイクとか竿竹屋に比べたら全然大したことはないけれど)。すみません、皆さん。どうか我慢してください、と申し訳なさマックスでありましたが、無事スーパーに到着。土を買う。帰りは土の重みがしっかりと効いていたのであまり手押し車というか、台車の音はしなかった。が、問題発生。家のスロープにある少しの段差を越えて進んでいくことが出来ないのだ。その段差は3、4カ所あって、そのたびにわたしが渾身の思いで台車の前輪を持ち上げて、とやっていたんだけれど、最後の割合きつめの段差がどうやっても上がらない。とそこへ、わたしたちがワイワイやっていて困っている様子を察してくれた、斜め前の家を建てていた大工さんが手伝ってくれて、いとも簡単にそれを持ち上げてくれたんだ。その大工さん、頭はもう完全に白髪でまさにおじいさん。が、若造の結構筋肉質に見える感じの見かけ倒しのわたしをよそにそのおじいさんはひょいと、いとも簡単に持ち上げてしまった。人間、年齢じゃないのね。40歳のわたしが70(いや80手前? いやもっと?)のおじいさんに助けられるという図。なかなか痛快でありました。これからは非力で顔色の悪い若者が元気そうなバリバリの老人に電車で席を譲られるなんていうことが日常になるかもしれないなぁと思ったりもするよ。
 というわけで只今の時刻は午後の6時。今日は8000歩も歩いているし、なかなか面白いことがたくさんあった。今日は眠れるぞ、きっと。って逆に今日が面白すぎたなぁって眠れないかも。いやはや、明日の太陽礼拝に差し支えるから。そんなわけで、星の長い長い一日がこうして終わっていくのでありました。
 さて、たくさん書きました。ここまで読んでくださり、感謝しております。おやすみなさい。それではまた。



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