感謝できる人でいたい

いろいろエッセイ
この記事は約7分で読めます。

 昨日、我が家では一悶着とまではいかないけれど、波風立つ出来事があった。一言で言うと、わたしとしては珍しいことに母に強めの口調で言ってしまったのだ。母からさつまいもを炊飯器でふかす料理を作っておいてほしいと頼まれたわたしはその言葉の通りにした。さつまいもを切り、炊飯器に入れて、水も入れてセットした。そこまではいい。が、夕食の時にそのさつまいもを食べようと思って、わたしが炊飯器を開けたら母が「さつまいもをやってくれたんだね」と言うものだから、何だかそれが自分が頼んだことを忘れていたかのような感じに思えてしまったので、わたしはつい咄嗟に「頼んだじゃん」と少し強めの口調で言ってしまったんだ。母からしたらわたしから「お前が頼んだんだろう」と言われたような形になってしまったわけで、母が「頼まなければ良かったっていうこと?」とその後に言葉を続けたのはもっともだと言える。
 人間、余裕がないのはやはり良くない。かく言うわたしはここ数日、睡眠が短くなっていた。やらなくてもいいのに、寝る直前にブログの記事を書いて投稿していたりしたせいで、パソコンのブルーライトを浴びてしまっていた。そのせいで眠りが浅くなり、深く眠ることができず、短時間で目が覚めるような感じになっていたのだ。だから、目覚めが良くなくて、一応眠れたことは眠れたものの、疲れも取れず残っている。にもかかわらず、日中に昼寝などをすることもなく、いつも通りに結構活動していた。それでもうすごく疲れがたまっていた。疲れていて、睡眠の質が悪くて、しかも時間も足りていなくてガス欠状態だった。
 だから、さつまいもを切るのだって、あまり気が進まないと言えば進まなかったし、そんな状態であるにも関わらず、わたしは無理をして野菜スープまで作ったのだ。そんなわけでいっぱいいっぱいだった。そこへ、まるで自分が頼んだことを忘れているかのような母の一言に少しばかりチクっとやられたような感じがした、というのがここまでの話。で、そんなわたしが「お前が頼んだんだろう」みたいなことを母に言ってしまって一波乱。
 というわけで母と少し険悪な感じになってしまい、そのわたしの言葉が至らなかったことを謝ったわたしは、さすがに疲れて調子も悪かったので、まだ午後の7時頃だというのにもうベッドに入って寝たのだった。
 それから眠りについて3時間半くらい経った頃だろうか。ふとトイレに行きたくなり目が覚めた。トイレに行ってからまた自室へ戻るとふとあることに気が付いた。それはわたしが感謝を忘れているということだった。
 以前、このブログにも書いたとは思うけれど、教会員のOさんがわたしに語ってくれた印象深い言葉がある。それは「感謝すればグチは出てこない」という言葉で、ふとこの言葉を思い出したのだ。
 大抵というか多くの場合、人間関係がギスギスしてくる時というのは、片方だったり、両者が相手への感謝を忘れている時なのだと思う。相手に感謝して「ありがとう」という思いを言葉や態度で向けている時にはそもそもギスギスなんてしない。Oさんは、感謝しながらグチは言えない、みたいなことも教えてくれたけれど、もっと感謝の効用は広くわたっていて、怒りも、妬みも、疑いも、悲しみも、そうしたありとあらゆるネガティブな感情は感謝さえあれば浄化されて清められて消えていってしまう。
 今回のわたしの場合だって、実は、と言うか本音を言ってしまえば、我が家の家事の多くをわたしがやっていることについて不満があった。家事をやっていると言っても、たかが知れていると言えば知れているのだけれど、それでも自分の勉強や読書などの知的な活動ややヨガ、ならびに運動などと両立させるというのは結構疲れて大変だったんだ。だから、母にはもっと家のことをやってほしかった。やるまではいかなくても、手伝おうとする気持ちを見せてほしかった。
 でも、「感謝する」というベクトルでもう一度この状況を見つめ直してみたら、そのわたしの要望というか、要求がわがままとまではいかないけれど、何だか高望みな気がしてきた。母は母でいろいろ大変で、できないのにはここには書けないけれどちゃんとした正当な理由がある。それは分かっている。でも、求めてしまうんだ。やってくれることを。
 感謝できることを探してみる。するとたくさんあることに気が付く。そう、当たり前だと思っていることすべてが感謝できることだと言ってもいい。
 母が去年入院してわたし一人で暮らさざるを得なくなった時、本当に寂しかった。で、母がまた家に戻ってきてくれた時、どれほど嬉しかったことか。どれほど有り難かったことか。家にいて、あるいは帰ってきて話ができる人がいる。それがどれだけ嬉しくて、心が休まることなのか、癒されることなのか、その時は本当に痛いほど身にしみた。しかし、それが当たり前になってしまうと、その有り難さが普通の日常になってしまって何も感謝することさえもしなくなる。挙げ句の果てには母にただ家にいてくれるだけでは物足りなくなって、あれをやってほしい、これをやってほしいと要求水準が上がってくる。母が退院して家に帰ってきてくれた時、「家のことは何もしてくれなくていいから、ただ側にいてくれるだけでいい」と思ったその時の思いなんて忘れてしまっている。あの時わたしは本当にそう思った。ただいてくれる。そばにいてくれる。それだけでいい。本当にそう思ったのだ。
 何だかこのことと良く似ているように思うのが、自分の子どもが生まれた時には「元気に育ってくれさえすればいい」と思うだけだったのが、成長していくにつれて要求水準が高くなっていき、テストで悪い点数を取ろうものなら頭から叱りつける、なんていう話だと思う。生まれてきた時には「生まれてきてくれてありがとう。本当にありがとう」とただ感謝の思いしかなかったのに、それから時が経つとあれをしろ、これをしろ、こうなってほしい、ああなってほしいと求めるばかりとなり感謝することを忘れてしまう。昔はただ生まれてきてくれて、元気でいてくれればそれでいい、なんて思っていたのにその有り難いと思う気持ちを忘れてしまう。
 だから、母にあれをしてほしい、これをしてほしい、というものがあることにはある。ないと言ったら嘘だ。でも、まずは、こうしてわたしと同じ家で一緒に暮らしてくれて、毎日側にいてくれること。いや、たとえ側にいてくれなかったとしても、生きていてくれること。それだけで有り難くて、感謝、感謝なのではないか。わたしくらいの歳でも親が既に亡くなっている人はいることだろうと思うし、そう思うと何をしてくれるわけではなくても、存命で生きていてくれるというだけで有り難いのではないか。当たり前のことって当たり前のことになってしまうから、感謝することを忘れてしまう。でも、この当たり前のことがどれだけ尊いことか。それを失った様子を想像してみるとはっきりと分かる。
 家のことは、ワークライフバランスではないけれど、もう少し読書や勉強なんかの時間をセーブするなりして、無理のない心地よいバランスを考えていこうと思います。
 母に一番感謝しなければならないと思うこと。それはこのわたしを産んでくれたこと。まさに産みの親。母なくして今のわたしはいない。出産というのは命がけだと思うんですよ。本当。だから、面と向かっては言えないから(何だか照れくさかったり恥ずかしくて)この場を借りて言います。「お母さん、わたしを産んでくれてありがとう。感謝しています。本当にありがとう」。
 物事がうまくいかない時、人間関係がギスギスしたり暗雲が垂れ込める時、ネガティブな感情に支配されそうになった時、感謝を思い出して、感謝できることを探すようにしたいと思う。そうすればきっとうまく乗り越えていけるんじゃないかと思う。単純すぎるかもしれないけれど、感謝パワーで乗り切っていけたらと思う次第だ。まぁ、とは言えども、完全に搾取されているとか、暴力をふるわれていて害悪を受けているとか、悪意を向けられているとか、そこまでの場合なんかは除くとしても、大抵のことは感謝をして、感謝できることを探していけば、事態は好転していきうまく行くことでしょう。少なくとも人や物事に感謝できている時というのは自分の心は平和で平安そのものだし、怒りや嫉妬や猜疑心、そして不平不満なんかからも自由になれている。
 感謝といういわば魔法を再発見できた次第で、今回の出来事は苦くもあったけれど、良い学びになったと思う。当たり前のことに感謝できて喜べる。そんな人になっていけたらいいなと思う。感謝、感謝です。



日本ブログ村のランキングに参加しています。
記事をいいなと思っていただけましたら、
下のバナーをポチっとクリックしてください。
クリックしていただけますと励みになります。
よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ プロテスタントへ
にほんブログ村

PAGE TOP
タイトルとURLをコピーしました