余命一ヶ月の祖母は京都のお豆腐が食べたいらしい

いろいろエッセイ
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 今は八月の上旬。一ヶ月後には九月になり、わたしの誕生日がやってくる。てっきりもう既に38歳になったと早とちりしていたわたしだけれど、まだなってなかった。37でした。
 って、何を言いたいかというと、年月はあっという間に過ぎるということ。この間20代だと思っていたわたしも、もう40代にあと2年で突入なわけだったりする。
 早い。時が流れるのって早いですね。本当、早いと思う。
 20代だったわたしがあと少しで40代になる。その間、20年という歳月が流れている。ここで注目すべきはわたしだけが歳を取っているのではない、ということだ。わたしのまわりの人たちも同じように20コ歳を取っている。
 というわけで、実感がないのだが、わたしの祖母は90である。それから祖父は92。母方の家系は長生きなようで、わたしも案外長生きできるのかもしれないと思ったりもする。長生き。したいですねぇ。
 その祖母があと余命一ヶ月ということで、家の中が慌ただしくなってきている。余命一ヶ月っていうことは、来月の九月頃までには死んでいるだろう、ということだ。生きていないだろう、ということだ。なかなかシビアな医者からの余命宣告であった。
 祖母は血液の病気をしていて、一ヶ月前の診察では余命2年と言われていた。それが最近病院へ言ってみたら、急に余命一ヶ月と言われてしまったのだ。白血病二歩手前と言われていたのが、ついに白血病化してしまったのだ。血液検査の結果を見せてもらったのだが、白血球数が正常な場合、上限8000くらいなのに、祖母は2万1000とかいう異常な数値を叩き出していた。それから、その他の血小板とか赤血球の数値も良くないらしい。身体状態も悪化してきている。
 この状態では年齢的なことや体力的なこともあり、治す方向での治療である抗がん剤はもちろんできない。祖母に残された選択肢は輸血をすること。これだけなのである。輸血をしてしのぐこと。これだけしか祖母には残されていないのだ。それで輸血でしのいでいて、悪くなったら入院して最期の時を迎える。おそらくそうなったら家にはもう帰ってくることはできない。
 まだ、祖母は今のところは普通に生活できているので、ぶっちゃけた話として、入院した場合の入院費をどうするか、葬式代をどうするかといったことをわたしが祖母に直接聞いてみたのだ。聞いてみるものである。お金のことについてはしっかりしている祖母で本当に助かった。これから直面するであろうお金の問題について、わたしからの質問に的確に答えてくれてはっきりとしたビジョンを示してくれたのだ。
 何にせよ、あと一ヶ月の命の祖母。わたしは祖母に「何か食べたいものはありますか?」と質問してみた。すると、祖母は言う。「京都のおいしいお豆腐が食べたい。」
 動きましたよ。星さん、すぐ動きましたよ。ネットで「京都 豆腐」と検索して、その中でも昔からやっている老舗の豆腐屋を見つけて、注文ポチッ。4000円。豆腐に4000円である。豆腐はなまものでおそらくクール宅急便で来るからだろう。送料だけで1000円もしたのだった。
 でも、いい。死ぬ前にみんなでおいしい京都のお豆腐を食べられて嬉しかったと思ってくれるならこれくらいの金額、どうってことない。それにわたしも京都の豆腐に興味ありますしね。どんだけ美味いんだろうって興味わきまくりです。
 人は生まれて育ち、そして必ずいつかは死ぬ。これは人間にどうこうできることではない。生も死も神の賜物なのである。そう考える時、神様がこの祖母の病、そして近いうちに訪れる死を通して、何かをわたしに教えてくださろうとしているのではないかと思えてくる。逆に言うなら、病があるからこそ健康のありがたさがわかり、死があるからこそ命の尊さがわかるのではないだろうか。決して病も死も無意味ではない。大きな大きな意味がある。そうわたしは信じたいし、信じている。
 祖母のこと、鬱陶しいとかうざいとか事あるごとに思ってきたけれど、それでも自分のおばあちゃんである。おばあちゃん孝行というほどのことはできないかもしれないけれど、残された最期の一ヶ月を共に味わって過ごしていけたらいいなと思う。


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