わたしのこれからの方向性

いろいろエッセイ
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「わたしのこれからの方向性」とこの記事のタイトルをつけてみたけれど、これって皆さん興味あります? っておそらくないだろうことは言うまでもない。わたしをリアルで知っていてどんな人なのかざっくりとでも分かっている人にとっては面白いかもしれないものの、どこの馬の骨とも分からないわたしなどに興味関心を持ってくれる人というのはすごく稀少だと思う。まぁ、とりあえず、今回の記事はわたしへのささやかなボランティアとでも思って読んでください。
 ところで、ではなくて、人って変わりますよね。いや、人だけじゃなくて森羅万象、形あるものは刻々と変わっている。変わり続けている。そんなわけだから、皆さんも、そしてわたしも、我が家の猫のルルでさえもが変化している。だから、今こうして自分の心象風景というか、心を見てみるとすごく変わったなぁって思う。
 まず、キリスト教的ではなくなった。これはすごく大きな事で、昔は、それも熱心に教会生活をしていた頃はそれはそれはキリスト教、それも信仰についてのことで頭の中がいっぱいだった。最強の信徒にさえなりたいと思っていたくらいだから、その熱の入れようは尋常ではなかった。そんなわたしだったけれど、今はヨガのことを考えていることが多い。ほとんどキリスト教のことは考えていなくて、クリスチャンであるのに悟りとか心の平安とか穏やかさとか、そういったことがマイテーマとなっている。カタカナのサンスクリット語の用語なんかも普通に使い始めている感じで、まだまだサンスクリットはかじってさえもいないけれど、それでも親しみを覚え始めている。あれだけ旧約聖書を、それもヘブライ語の原典を読めるようになるんだ、と熱を入れていた頃が懐かしい。
 こう言ってしまうのは何だけれど、今、すごく平和だなって思う。キリスト教をやっていた頃よりも今の方が心が穏やかなのは事実。教会にも行かなくなって、あの、心をかき乱される牧師の説教から解放されたことも大きい。そして、アシュタンガヨガの教室(この世界ではシャラと言って道場を意味する。だから、教室と言うよりは道場とかシャラと言った方が正しい)へ行くようになって、何か関わっている人の種類が変わってきて、わたし自身も彼らから影響を受けて変わってきている。一言で言うならキリスト教の人たちはとても繊細で弱さを抱えている人が多かった。苦しくて教会へやっと行って、そこでかろうじて息継ぎをして呼吸をしている。そんな感じの人が多かった。それに対して今のヨガの道場はみんな何も問題を抱えていないわけではないのだけれど、ヨガといういわば修行をすることによって平安を目指そうとしている。そんな人たちなのだと感じる。アシュタンガヨガというヨガの世界ではかなり運動量のあるヨガを長年続けている人たちだから、すごく体力もあるし、筋力も強いし、言うならば体育会系のマッチョのような感じと言ったらいいだろうか。ただ、ただのマッチョだったり体育会系と違うところはヨガ的な平和とか心の静けさというものを知っているというところが違う。キリスト教が弱さの柔和さだとしたら、アシュタンガヨガは強さの柔和さという感じだろうか。強いから、身体的にも普通の人よりも鍛えて強いから余裕がある。それがゆえの柔和さ、穏やかさ。
 と、少し話がずれてきているようなので、最初の話に戻って、わたしのこれからの方向性、どうしていきましょう? って聞かれても困るよね。あなたはわたしではないんだから。でも、ヨガ哲学的にはみんな一つなんだと考えるから、まぁ、あなたに聞きましょうか。わたし、どうしていったらいいんでしょう、ってね。わたしがあなたで、あなたがわたしで、わたしがみんなで、みんながわたし。何だか謎めいてきましたが、とりあえずこうしたことは置いておくとして、わたしの内側にどうしていきたいのか聞いてみると、特にこれと言ってないようなのです。えっ? ヨガをやっていって、それを深めていきたいんじゃないの?、とお思いなのは必死。たしかに、ヨガはやっていきたいと思っております。でも、特にこれと言ってどうしていきたいというのがないのです。と言いつつもないというのが何もないのではなくて、あることにはありますよ。最近は悟り、サマーディに関心が出てきましたし、まぁ、ヨガ的な平安を求めていることは事実なのです。じゃあ、最初からそう言ってよ、ってなるわけだけど、そういったことも含めて特にないのです、と言ってしまうのは何ていうかもはや自己実現とかいいかなっていう気がしてきたわたしがいるからなんだ。もちろん、ヨガはやる。今しかできないアシュタンガヨガを精一杯やる。果敢に続けていってある程度のところまでものにしたいとも思っている。でも、矛盾するようだけれど、そういったものでさえも手放せるような(ヨガはやりつつも)そんな境地になれたらいいなって思うんだ。その境地になれるのか、なれないのか、さっぱり未定ではあるものの、何もこわだりがなくて自由な柔らかい境地になれたらなって思う。まぁ、それもなりたいと思っているわけではある。でも、自分がどうこうするとか、そういうことではなくて、自分がやれることはやりつつも、大きな力に任せると言ったらいいのか、委ねることができたらなって願っているんだ。何年か前にカルヴァンの自由意志がどうたらこうたらといった記事を書いたかと思うけれど、もしかしたら、今こうして記事を書いているこの文章の内容もすでに天地が創造される前から、何を書くのか決まっていたのかもしれないな、っていう気がするんだ。一字一句、もうすでに何を書くのか決まっていた。ただ、わたしはそれを自動筆記しているだけ。そんな気がしてきた。でも、それが事実だとしても、やっている本人は自分の自由を行使して、自分の責任において選択してやっていると思っている。でも、でも、もしかしたらそれは事実ではなくて、すべて一挙手一投足すべて決まっていたんじゃないか。そんな風に今考えながら、もしかしたらと推測している。そう考えると、わたしという身体や心を通して神様が自己表現をされているんじゃないかとも考えることができる。わたしは神様の器で乗り物で、自分で動いて行動しているようでありながら、実は違ってすべて御心によって動かされている。話がだんだんややこしく、まとまらなくなってきたけれど、荒削りながらもそんなことを思ったりもする。
 何て言うのかな。あまり計画は立てないで行き当たりばったりの出たとこ勝負でやっていきたいなって思っているんだ。急に何を言い出す、って感じでしょ? でも、何かそんな気分なんだ。だから、計画は少しは立てるけれど、何もわたしは計画のために生きているわけではないんだから、臨機応変にその場、その場の感覚だったりフィーリングでやっていく。それこそがわたしにとっての素晴らしき人生なんだろうと思う。その時、その時、やりたいことをやる。だから、毎日2時間読書をするとか決めたりはしない。でも、毎日ヨガはやりたい。だってやりたいから。やらなければならないからやるのではなくて。でも、まぁ、1時間とか1時間半くらいはやらねばとも思ったりもする。まとまらなくて申し訳ないのだけれど、矛盾を少しばかり抱えているくらいが丁度いい。と言い訳しつつ、とにかく出たとこ勝負の直感重視でやっていきたい。それだと雑草ばっかりになっちゃうよ。何も成し遂げることができないよ。そんな忠告をしてくれる人もいるかと思う。けれど、思うのは別に雑草だらけの人生でもそれで良くないですか?、ということなんだ。注意が散漫で結局何も成し遂げられなかった人生でしたね、となってしまっても、それがわたしの望んだことだったんだ。だから、それは仕方がないと言うよりは、そういうもんなんだからいいでしょ、と言いたい。何かを成し遂げるというのは素晴らしいことではある。でも、それをやったところで何になるのだろう、と冷めたわたしはつぶやくのだ。今もこの社会を、世界を変えようと奮闘している人はいる。その方たちには「わたしにはとてもできません。世界を良くしようとしてくれてありがとうございます」と言いたい。でも、冷めたわたしはそう言いつつもそれを上からまるで鳥か何かのように俯瞰して眺めている。言うならば、たとえるなら、たしかに日本の平安時代に国を良くしようとした人たちはいた。そして、平安時代だけではなくていつの時代にもいた。でも、それは一体何だったのだろう、と思う。たしかに良くなったのだろう。良くしてくれたのだろう。でも、それが何だったのか。
 わたしが精神的に劇不調だった20代の頃に愛読していた中島義道という哲学者は「何をやってもどうせ死ぬのさ」とすべてを無意味化していた。それを覆す方法。それはこの自分の人生が、生涯がこれで終わりではないと確信することくらいしかない。それしか方法がない。だから、投げやりになったり、ヤケクソにならないようにするには、物語にすがらなければならない。それはキリスト教の天国や永遠の命の思想だったり、インド的な輪廻の思想だったり、いろいろとある。
 でも、そういうことではなくて、この社会を良くしていくことに希望を見出せないのは、あまりにもこの自分自身の人生が短いからというのも理由の一つとしてある。いや、それも少し違うか。何ていうか、国語の教科書に載っていた「国破れて山河あり」の境地というか感覚の方が近いかもしれない。人類の歴史というものは国が起こっては滅んで、起こっては滅んで、そしてその間に何回も何回も人が生まれては死んで、生まれては死んでを繰り返している。だとしたらその自分が生きている80年から長くて100年あまりの間に社会が良くなったとか国が良くなかったとかやっても、大してさほど意味はないのではないか。そんな風に思ってしまう。もちろん、そうすることによって自分自身にメリットがあり、何からの利益があるのならやるだけの価値はあるかもしれない。けれど、そうでもないのだとしたらなぜそれをやろうとするのか。
 話を戻して、なりたい自分になるという自己実現も国や社会を良くするということも結局はそれだけのことでしかないのだと思う。なにも、否定したいのではなくて、ただ、それだけのことでしかない。そう、それだけのことなんだ。社会は人々の尽力のおかげで良くなっている。それは感謝すべきことであり、その恩恵を受けている身なのだから否定すべきではない。でも、何て言ったらいいのか。そこに儚さをわたしは感じる。形あるものは永遠ではない。魂は永遠だとしても、社会や国は永遠ではない。日本だっていつかは国名が変わったり滅んだりすることだろう。そういった形あるものに執着することに意義を見出せる人は頑張ってやってくれたらいいと思う。しかし、わたしはそれに特段の価値を見出すことができない。それよりはわたしは自分自身の平安を見つめていたい。穏やかに静かでありたい。
 あぁ、そうか。これがわたしが今思う、わたしの方向性なんだな。ここまで書いてきてようやく分かったよ。方向性というかやりたいことがないのです、などと最初の方で書いたものの、それでもわたしは平安を求めていたのだ。平安という言葉はすごくいい言葉だと思う。平らで安んじているんだ。満たされていて、かき回されたりはしていないんだ。上がりすぎてもいなくて、下がりすぎてもいない。平ら。水平線。平行。平行線。平らというのは無駄なものがない。いわばシンプルな感じと言えばいい状態だ。
 わたしは凡人だからすぐ嬉しくなったり落ち込んだりしてしまう。ヨガをやることによってその振り幅がだいぶ小さくなってきたものの、それでも揺れて揺さぶられる。それを修行というかトレーニングしていけば、いつでも心穏やかな状態になれるのだろうか。いや、揺れてもいいんだ。凡人、普通の人なんだから揺れるのは当たり前。でも、その揺れてバランスを失いそうになった時に、それでもまた持ち直せるかどうか、バランスを回復させることができるかどうか、というのがすごく大事なんだ。
 目指すもの。それは平安。その平安が究極的なレベルにまでいけばサマーディという悟りの境地に至る。どこまでやれるのか、行けるのかは分からない。いやいや、やってみたらさっぱりダメだったとなるかもしれない。でも、やっていきたい。それがわたしの方向性なのだろう。今、わたしが思う所の方向性なのだろうと思う。
 以上、ここまで読んでくださった方は数名だろうと思う。何せ5千文字超えてますからね。ありがとうございます。読んでくださって。ここまで長い文章を読んでくださって。とにかく、以上が今わたしが思うこととわたしの方向性についてのお話。何かあなたにとって得るところがありましたが幸いであります。ではっ!! シュワッチ!!(ウルトラマンが戦い終えて飛んでいくみたいな?)



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