オリンピックを見ているとモヤモヤしてくるのはなぜか?

いろいろエッセイ
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 今年の夏の一大イベント。それは言うまでもなく東京オリンピックである。新型コロナの感染拡大が懸念される状況でオリンピックを開催することについて賛否両論あったのだが、何だかんだ強引に(?)押し切られる形で始まったのは周知の通りだろう。
 最初はやや批判的なスタンスでほぼ傍観者のような視点から見ていたオリンピックだったが、テレビで見始めるとこれが結構面白い。コロナ禍で開催なんて呑気なもんだと思っていたのはどこへやら、オリンピック特有の空気感に呑まれて、そこそこ何だかんだテレビの前にいるわたしなのであった。だから、固いことは抜きにしてわたしは楽しんでいるのであった。
 今日は午後7時半頃から卓球団体女子の決勝、日本vs中国の試合があり、最初から最後まで見ていた。日本は負けたが、なかなかいい試合をしていて、白熱した戦いだった。
 ということ(試合内容)を言いたいわけではない。何を言いたいのかと言うと、日本の負けが決定したあたりからだったろうか。急にモヤモヤし出してきたのである。わたしの心が乱れだしてモヤモヤし始めてきたのである。このモヤモヤ感は一体何?てなわけで、一体わたしはオリンピックの卓球の試合を見てなぜモヤモヤしたのか。わたし自身の心に向き合ってみたいと思ったのだ。
 わたしのモヤモヤは端的に言うなら、自分とオリンピック選手たちとを比較してしまったことによるものではないのか。
 金メダル、銀メダルを取っている彼らとわたしを比較して、わたしはなーんにもやれていないように思えてしまったのである。No.1とNo.2のいわばピラミッドの頂点に君臨している人たちを見て、自分が箸にも棒にもかからないダメ人間のように思えてしまったのである。
 星大地。37歳。学生。収入は障害年金のみ。吃音。精神疾患の統合失調症。特技は特になし。(秀でたものはない。)資格、特になし。最終学歴、高卒。大学中退。放送大学在学中。
 つまり、パッとしないのよ。パッと。どこにでもいる普通のお兄ちゃん。オリンピック選手と比べると本当、冴えない人間なんですよ。何かこの普通ということがとてもみじめなことのように思えてくるのである。
 冷静に考えてみれば、オリンピック選手はその競技のトップ選手なのだから特別。あの人たちは例外的な存在なんだよ、ということは分かる。けれど、彼らと自分を比較してしまう時、自分がどうしようもなくつまらない人間に思えてきてしまう。
 オリンピックに罪があるとしたら、それは普通とか平凡に価値があるという事実を否定する方向に働いてしまうことだと思う。それから、頑張ればみんな彼らのようになれるのだという変な幻想を抱かせることにも問題がある。
 普通、平凡って案外すごいことなんじゃないの? 平凡なことってつまらないことじゃなくてとても幸せなことなんじゃないの?
 だが、オリンピックを見ていると、勝負の世界で勝つことがすべてで、負けることは好ましくないことで良くないことで、とにかく勝つことが素晴らしい。まるでそんな勝利至上主義に毒されているかのような、そんな空気がテレビの画面からそうした意図はないのだろうが、ひしひしと伝わってくる。選手たちから平凡であることを褒め称えるメッセージは一切伝わってこない。彼らは精神的にも肉体的にも体育会系で(当たり前だ。)勝ってなんぼの世界に生きている。いや、勝たなければ自分の存在意義はないとすら思いこんでいるふしさえあるのではないかとわたしなどは思う。
 より強くなる。一番強くなる。
 つまり、一番強いことに一番価値があるという思想なのである。一言で言えばマッチョ。己を鍛え上げてどこまでもどこまでも高みを目指して向上していく。
 選手の価値。それは強さである。その選手が自分を価値あるものとみなすのは、強さがある時だけなのである。だから、自分がチャンピオンだったのに、突然別の強い人が現れて地位を奪われたとしたら、自己肯定感はガクっと落ちることだろう。その人にとっての価値が卓球で強いことなら、強くなくなった時に自分の価値はなくなってしまう。
 わたしがオリンピックを見ていてモヤモヤしたのはそういうことだったのか、と合点がいった。つまり、勝利至上主義を突きつけてくるオリンピックの思想がまるでわたしに平凡な今のままではダメだよ、価値がないよ、と不安を煽り立ててきたのだ。
 そんなことはない、と思いたい。たしかに競争に勝って一番になることはすごいことだし、意味があることだし、価値があることだというのは認める。より良くしよう、高めようというのは人間を成長させる。
 そこまではいい。でも、一番でなければ価値がないとか意味がないというのは歪んでいるし間違っている。テストで100点を取ることに価値があるとされているのは、100点をとれない人が多いからだ。とれない人が大半を占めるからだということを忘れてはいけないと思う。全員が100点を取れるテストだったら100点にあまり価値はないだろう。その100点が稀少なものであればあるほど、そこに価値が発生してくることは明らかだ。同じように一番、チャンピオンになることもチャンピオンになることが一人しかできないからこそ価値がある。
 勝者はもっと敗者に敬意を示した方がいいと思う。なぜなら、勝者は敗者が負けてくれたおかげで勝者でいることができるからである。だから、勝者は敗者を貶めてはならないとわたしは思うのだ。
 そもそも勝ち負けには基準が必要である。こうしたら勝ちでこうしたら負けという基準がなければ、そもそも勝ち負けというものは存在することができない。一昔前に勝ち組、負け組という言葉が流行った時代があったけれど、それであっても世間一般的な基準というものがあり、それが幅を利かせているからこその芸当なのである。お金を持っている人が勝ちで持っていない人が負けというのは、そのルールが通用する世界での話でしかない。逆のルールが適用されている世界では、逆に持っていない人が勝ちだったりする。言うなれば、その基準を決める権限を持っている人が最強ということになるのかもしれない。線引きにしろ、どこかで線を引かなければならないからである。だから、基準というものはどこまでも恣意的である。誰かが決めたものでしかないのだ。わたし個人の見解としては神が決めたものが最強だと思っている。まぁ、これは余談だが。
 わたしがモヤモヤしたのは、その強さの基準をまるで絶対的なものであるかのように押し付けられたことにもよるのかもしれない。そして、わたしがまるで平凡であるがゆえに価値がないかのようなメッセージを送りつけられたように感じたことも不快だったのかもしれない。つまり、オリンピックが発するメッセージがわたしの価値を脅かしたのである。「平凡なのはダメだぞ」と。
 この世界は平凡な人、能力がお世辞にも高いとは言えない人の夥しい群によって成立している。そして、そうした人々がこれまた平穏に暮らしているからこそ平和が保たれているのである。だから、彼らの価値を貶めたり、蔑ろにすべきではない。どんな人であってもお互いをリスペクトし合えるような、そんな社会にしていけたら素晴らしいと思う。
 勝って頂点に登りつめることも素晴らしいけれども、平凡であることも素晴らしい。誰かを排除するのではなく、認め合えるようになってきた時、それこそが成熟するということなのではないだろうか。オリンピックを見てそんなことを考えた平凡なわたしなのであった。
 平凡、悪くない。あなたもそう思いますか?


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