聖餐についての本を読んでいます

キリスト教エッセイ
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 時刻は夜の8時を少し過ぎたところ。わたしが最近書いた「恋人はいないけれどリア充なんです」と書き綴った記事には午後3時半に散歩してるとか書いたけれど、いかんせん暑いもんだから、夕食後の涼しい時間帯に歩くことにした。星の真似をして午後3時に散歩することに決めた律儀な人がいるかもしれないから言っておくけれど、涼しい頃の方がいいよ。無理することはない。暑い中無理して散歩してもいいことなんて何もない。
 夕食が終わったころと言うと、6時頃になっていて、夏のうだるような暑さなどどこへ吹き飛んだのか、ひんやりとしている。快適ぃ~。で、それからシャワー浴びて何だかんだしてたら、今に至るというわけなのだ。
 さて、何を書こうか。何について書こうか。横着なわたしは書きながら考えている。では、最近読んでいる本について。
 最近わたしは聖餐についての本(芳賀力編『まことの聖餐を求めて』)を一生懸命読んでいる。な・ぜ・か・と言うと、8月のはじめに教会で修養会があり、そこで聖餐について学ぶことになっているからなのだ。星さん、何て真面目なんでしょう。(自分で言うのも何だけど。)予習ですよ、予習。偉いことに予習して修養会に臨むつもりなのです。だが、あと10日くらいしかない。時間がない。時間がないのだ。本を読むのが決して速い方ではない星なので、修養会までに本を読み終えることができるかどうか怪しいのだが、読み終えることができなかったら、その時はその時よ。勉強したことは決して無駄にはならないし、信仰生活においてもきっとプラスになっていることでしょう。何しろ聖餐についての学びなのだから。無駄になることはない。これは断言できる。
 勉強していて思ったことは聖餐についてほとんど何も知らなかったなということだった。まだまだわたしはキリスト教のビギナーだから、今読んでいる本でも難しいところは理解できない。でも、読んでいて「おお、そうだったのか」と目からウロコなことはいくつかあった。聖餐とは直接関係ないけれど、日本聖公会が英国国教会から来ているんだなというのは初めて知った。それから、聖公会は原則、堅信しないと聖餐にあずかれないとか、「そうなんだ~意外~!」とわたしの中で驚きがあった。洗礼受けたら聖餐にあずかるのが常識だと思っていたからだ。それから、カトリックも聖公会も聖餐を前にして自分の状態がふさわしくないと思ったときには、聖餐を受けないとか、そういう謙虚かつ厳格な姿勢でわたしは聖餐に臨んだことがなかったので、とても驚いたと同時に新鮮だった。(わたしは聖餐は原則として必ず受けるものだと思っていた。)また、英国国教会のことも出てきて、これがまた最近途中まで読んだナイチンゲールとつながるわけで、あぁ、そういうことだったのね、とわたしの脳内で合点が行ったのだった。点と点がつながって線になったって感じで興奮した。
 そういうわけで真面目な星さんは読書に励んでいるのだ。分からないところが続くと気力が消耗していってやる気もそがれるけれど、「そういうところは仕方ないや。今の自分には分からないけれどいつか分かる日が来るから大丈夫」と思うようにしている。いつか分かるようになればいいと気楽に構えるようにしている。それくらいの方が気持ちが楽でいい。修養会までにちょ~っとこのペースだと読み終えるのはきついけれど、まぁ、やることやってるから終わらなかったとしても良しとしようと思う。
 聖餐は死ぬまで受け続けるものだから、この学びはかけがえのないものになりそうだ。修養会が終わったとしても、引き続き学んでいくのもいいかもしれない。急がず焦らずぼちぼちやれることをやっていきたい。

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